南品川(読み)みなみしながわ

日本歴史地名大系 「南品川」の解説

南品川
みなみしながわ

品川郷が南北に分立して生れた地域呼称。中世の南品川は品川(現目黒川)の右岸に位置し、開発領主品河氏の拠点となった地域である。すでに貞応二年(一二二三)に南品川郷の地名を確認することができるが(→品川、南北朝時代以降、港津と宿を背景に形成され始めた町は室町時代の半ばには発展の画期を迎えた。なお品河氏は応永三一年(一四二四)に所領を没収され、堀内を除く品河太郎跡が足利持氏母一色氏の所領となり(同年六月一七日「足利持氏充行状」上杉家文書)、品川は鎌倉府の御料所に組入れられていった。永享期(一四二九―四一)になると、妙国寺文書に寺地の寄進など南品川についての情報が多くなる。永享六年五月に南品川の芝原の地が妙国みようこく寺に寄進されたことをはじめとして(同月一三日某充行状)、寺地の寄進にかかわる文書が残されている。室町時代の南品川は妙国寺の西側に「大大道」とされる街道が南北に通り(永享一〇年七月一八日憲泰寄進状)、近世の池上いけがみ道の延長にある浅間せんげん(現在はゼームス坂ともよばれている)下辺りを中心に町の所在が想定される。中世の街道は品河氏の居館の所在地としての伝承のある権現台ごんげんだいからそのまま進み、近世の要津ようじん橋と居木いるぎ橋辺りで品川を渡り、近世に御殿ごてん山とよばれるようになる丘陵の尾根伝いに北進していたと考えられる。

室町時代の南品川は大大道と大道(前掲某充行状)を中心に町割がされ、そこに多くの寺院が軒を連ねていた。妙国寺文書のなかに妙国寺とその塔頭荒居あらい道場・之宮・熊野堂・本光ほんこう寺・随応院・法蔵房・善仲寺・妙行寺など南品川にあった多くの宗教施設の名が記されている(文明八年六月二〇日本光寺日鏡寺地相博状など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報