北吉田村(読み)きたよしだむら

日本歴史地名大系 「北吉田村」の解説

北吉田村
きたよしだむら

[現在地名]松山市北吉田町きたよしだまち大可賀おおかが三丁目

松山平野の西平坦部に位置する農村。東方に垣生はぶ(一二九メートル)、西北方に忽那くつな(四九・一メートル)の分離丘陵がある。東は高岡たかおか斎院さや別府べふ三村と垣生山で境し、西は伊予灘に臨む。南は南吉田みなみよしだ村、北は山西やまにし村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)温泉おんせん郡の項に「北吉田村 日損所、林有」とある。

古代には温泉郡埴生はにゆう(和名抄)に属したと考えられる。中世には河野氏の家臣垣生氏の統治下にあった。近世に入り加藤嘉明・蒲生忠知の治世を経て、寛永一二年(一六三五)以降松平氏による松山藩領となった。

北吉田村
きたよしだむら

[現在地名]大網白里町北吉田、茂原市北吉田

柳橋やなぎばし村の南に位置し、南部を小中こなか川が流れ、北部を土気とけ往還が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二七六石。元和二年(一六一六)知行宛行状で二七一石余が旗本阿部氏に与えられた。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では青野組に属し、旗本酒井領一九〇石余・同阿部領八五石余・同桜井領二四〇石・同戸塚領七〇石とあるが、桜井領は御蔵芝みくらしば(現茂原市)、戸塚領は南飯塚みなみいいづか村と思われる。元禄郷帳では高二八三石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三一、旗本仙石・阿部領。安政二年(一八五五)には家数二四・人数一六六、馬一八(「村明細帳」十枝家文書)

北吉田村
きたよしだむら

[現在地名]酒田市保岡やすおか

越橋こえばし村の南にある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一二五石余と二石余で計一二八石余。寛永元年庄内高辻帳の高二〇七石余。寛文九年(一六六九)検地帳(北吉田区有文書)によると一七七石余、田方一二町五反余・畑方一町七反余。名請人一四人、うち居屋敷所持者は八人。貞享四年(一六八七)には草刈地の鷹尾たかお山山札を一六枚所有しており、米三斗二升を納めた(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android