玉造郡(読み)たまつくりぐん

日本歴史地名大系 「玉造郡」の解説

玉造郡
たまつくりぐん

面積:四六六・五九平方キロ(境界未定)
岩出山いわでやま町・鳴子なるこ

県の北西端に位置する。郡域は北西から南東に細長く、一部を除き郡域を貫流する北上川支流江合えあい(荒雄川)およびその支流域である。西は小鏑こかぶら山ともよばれる禿かむろ(一二六一・七メートル)・大鏑山(一一一九・七メートル)と連なる奥羽山脈をもって山形県最上郡最上町、北は須金すがね(一二五三メートル)山猫やまねこ(一〇三四・四メートル)などの同じく奥羽山脈の山嶺をもって秋田県雄勝おがち郡雄勝町・皆瀬みなせ村、北東は栗原郡花山はなやま村・一迫いちはさま町、東は同郡高清水たかしみず町・古川市、南は加美かみ中新田なかにいだ町・宮崎みやざき町と接する。北部の荒雄あらお(九八四・二メートル)を水源とする江合川は県境山間部の水を集め荒雄岳山麓の環状盆地に沿って曲流し、鳴子町尿前しとまえ中山平なかやまだいらを東流する大谷おおや川を合せ南東流し、岩出山町域では扇状地を形成しながら郡南東に広がる大崎おおさき平野に入っていく。古くは玉造川とよばれた。現在当郡域では荒雄川が通称となっている。近世、江合川は舟運にも利用され、岩出山本郷下一栗しもいちくり辺りまで船は遡上していたと思われ、慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)には止場として「たまつくり」がみえる。その後川床が浅くなるにつれ、岩出山本郷の舟場ふなば小路、下野目しものめ高梨浦たかなしうらと船着場は下流に移り、近世末期には長瀬ながせが同川最上流の船着場となった(岩出山町史)。同川は下流域では氾濫を繰返す荒れ川として知られたが、昭和三二年(一九五七)鳴子ダム完成後は大きな被害をもたらしていない。現在同川・大谷川沿いにJR陸羽東線、国道四七号が東西に走り山形県と結び、尿前で四七号と分れ、江合川上流に沿って北上する国道一〇八号(仙秋サンライン)が秋田県と結ぶ。

「続日本紀」神亀五年(七二八)四月一一日条に「玉作軍団」とあり、郡名としては神護景雲三年(七六九)三月一三日条に「玉造郡人外正七位上吉弥侯部念丸等七人」とみえ「下毛野俯見公」を賜姓している。「和名抄」国郡部(東急本)では「太万豆久里」と訓じ、異訓はない。古くは「玉造部」が集住していたとも考えられるが明証する遺構・史料は発見されていない。なお西端に位置する禿岳は水晶すいしよう山とも称され、水晶(石英)の産地であったといわれる。

〔原始〕

考古遺跡は全般にわたって江合川流域の段丘上、ならびに北西から大崎平野に向かって突出する玉造丘陵上および丘陵端部に集中して分布する。旧石器時代では、岩出山町内の城山しろやまA遺跡・木通沢あけびざわ遺跡・三太郎山さんたろうやま遺跡などから、後期旧石器時代の石刃や剥片が採集されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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