別子山村(読み)べつしやまむら

日本歴史地名大系 「別子山村」の解説

別子山村
べつしやまむら

[現在地名]別子山村

宇摩郡の西南部、石鎚いしづち山脈とその支脈の赤石あかいし山系(宇摩郡の部分は法皇山脈と通称)に南北を挟まれた山村。東は津根山つねやま(現伊予三島市)、南は石鎚山脈を隔てて土佐国土佐郡の一一村、西は新居にい大永山だいえいやま村・種子川山たねがわやま(現新居浜市)、北は赤石山系を隔てて上野うえの村・浦山うらやま(現土居町)に接する。銅山どうざん川が村の西部に発源して深い谷をえぐって東に流れる。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「高三拾四石 内田方弐石三斗壱升五合畠方三拾一石六斗八升五合 別子山村 はへ山有、川有」と村名がみえる。

開村伝承の一つは平家落人の三兄弟が定住したとするもので、兄弟の名前に由来するという余慶よけい豊後ぶんご葛籠尾つづらおの地名が村の中部に残る。同じく一二世紀末に村の東部の瓜生野うりうのに入住した近藤一族があり、殿の関とののせきなどの地名を残す。これらを本村とよび、その後分れて集落が開発されたところから別子とよぶようになったという。

和名抄」にみえる宇摩郡近井ちかい郷に属したとされ、享保六年(一七二一)の伊予国宇摩郡別子山村明細帳(長野家文書)によると「年号不知加藤左馬助様御検地之由申伝候名寄帳を以支配仕候」とある。戦国末期から江戸初期の諸領主支配を経て、寛永二〇年(一六四三)幕府領となって幕末に至ったが、長く松山藩預所であった。

別子山村
べつしやまむら

面積:七二・四五平方キロ

宇摩郡西南部、嶺南れいなん(法皇山脈の南側)の西部に位置する。東は伊予三島市富郷とみさとに、南は石鎚いしづち山脈を隔てて高知県土佐郡に、西は新居浜にいはま市に、北は法皇ほうおう山脈の東赤石ひがしあかいし山などを隔てて土居どい町に接する。村の西部の山境に発源する銅山どうざん川が東流して村を貫流する。

元禄四年(一六九一)に泉屋(住友家)によって別子銅山(足谷銅山)が開業してから、日本有数の銅山町として栄えた。本来の村は田一反六畝余、畑三一町三反余で、人数四一〇人ほどの山村であったが、明和六年(一七六九)には男女四千余人が働き、年飯米は一万三千石にのぼったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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