八鹿村(読み)ようかむら

日本歴史地名大系 「八鹿村」の解説

八鹿村
ようかむら

[現在地名]八鹿町八鹿

現八鹿町域のほぼ中央やや東寄り、八木やぎ川の流域に位置する。同川は当地の西部で左岸小佐おさ川を合せ、東部の上網場かみなんば村境で円山まるやま川右岸に注ぐ。西は九鹿くろく村、南は朝倉あさくら村。本村集落は八木川北岸(左岸)沖積低地に発達、対岸沖積低地に天子あまご、本村南西の八木川北岸に一部いちぶ、北東の同じく北岸に大森おおもりの各枝郷がある。近世中期に谷間地はさまじ越の新道が開かれるまで円山川沿いに養父市場やぶいちば(現養父町)・下網場村を経て当地から高柳たかやなぎ村に抜ける道が山陰道の本道であった(歴史の道調査報告書)。中世には小佐郷に含まれ、永正一三年(一五一六)九月晦日付で福富六郎兵衛尉貞恒が日光につこう(現日光院)の妙見大菩薩に武運長久・諸願成就のため小佐郷恒富名の内田一段を寄進したが、その田地に「但ヤウカ治部作分」と注記されている(日光院文書)。貞恒が寄進したのは地主職で、ヤウカ(八鹿)に居住する治部が作人(職の所有者)であるという意味に解される。弘治三年(一五五七)「但馬国にしかた日記」には八木の分として「屋うか」「にし村殿」とみえる。

江戸時代の初めは幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本八木高補(勘十郎)領となるが、同一六年に幕府領に復し、同領で幕末に至ったと考えられる(寛永一六年知高帳・元禄郷帳・「寛政重修諸家譜」、「但馬国高附郡訳手控」岡田家文書など)。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高三九四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報