八田郷(読み)やたごう

日本歴史地名大系 「八田郷」の解説

八田郷
やたごう

和名抄」にみえるが、高山寺本・刊本とも訓を欠く。同書によれば八田郷は諸国にあり、「也多」(参河国幡豆郡など、いずれも刊本)、「夜多」(加賀国江沼郡、高山寺本)と訓ずるのに従う。仁平二年(一一五二)東光とうこう(現綾部市上延町)大般若経奥書に「丹波国何鹿郡矢田郷東中村」とあり、「矢田」と記すこともあった。また式内社福太ふくだ神社(現綾部市上八田町)の由緒に「此社地ヲ八田ト云ハ八田郷ノ親村」(丹波志)と述べる。

郷域は郡北部の八田川流域(現綾部市)、東は上林かんばやしと山稜を境とし、南は三方みかた郷、西は吉美きみ物部ものべ吾雀あすすぎ郷、北は丹後国加佐郡大内おおうち郷。

八田郷
やたごう

北は七尾南湾に臨み、大谷おおたに川・御祓みそぎ川流域、七尾市の市街地から七尾城ななおじよう山麓周辺に比定される。古代能登郡八田郷(和名抄)の郷名を継承する。鎌倉期以降守護所が置かれた府中ふちゆうと、その外港で御祓川河口に開かれた所口ところぐち(湊)を含み、戦国期に能登畠山氏の居城として築かれた城下をも郷域の内とする政治・経済・文化の中心地。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に八田郷とみえ、公田数はもと六段三であったが、同元年の国衙検注により四段と定められた。文亀三年(一五〇三)八月二〇日の畠山義統七周忌法語(翰林葫蘆集)によると、守護畠山慶致の居住する府中は八田郷に含まれていた。

八田郷
やたごう

「和名抄」諸本に「也多」の訓がある。現吉備郡真備まび箭田やたを中心とした地域に比定されている。推定郷域内には箭田大塚やたおおつか古墳や箭田廃寺がある。同墳は六世紀後半期に築造された直径約四五メートルの円墳で、造出しがつく。横穴式石室の規模は全長一九・一メートル、玄室の長さ八・四メートル、幅三メートル、玄室には三基の組合せ式石棺が置かれている。副葬品はすこぶる豊富で被葬者の富強を示す。

八田郷
やたごう

「和名抄」所載の郷。同書の記載では川上かわかみ郷に次ぎ、訓注は欠くが、同名の郷は能登国能登のと郡や加賀国江沼えぬま郡などにもみえ、東急本の訓には「也多」とある。史書に当郷に関する記事はみえず、また地名も残らないため、比定には困難が伴う。「三州志」が江田えだ(現福野町)にあてるのに対し、「日本地理志料」は高瀬たかせ郷・能美のみ(現福光町)井口いのくち(現井口村)の地域に比定する。また「越中志徴」は山田やまだ(現福光町)にあてて、ヤタとヤマタの音便を理由にあげ、「大日本地名辞書」はハタと読み、畠中はたけなかの大字が残る石動いするぎ町付近(現小矢部市)に比定している。

八田郷
やたごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。邑楽おうら郡八田郷は「和名抄」高山寺本に「也多」、東急本に「也太」と訓を付しているので、これに従う。和銅四年(七一一)三月六日の多胡郡建置に際し、甘楽かんら郡から割かれた四郷の一つであり、「続日本紀」には「矢田郷」と記載する。現多野たの吉井よしい町に矢田やたがあり、これを遺名とする。天平一三年(七四一)一〇月の正倉院御物の調布(白布)の墨書に「上野国多古郡八□郷上毛野朝臣甥調布壱端」とあり、「多古」は多胡で、「八□」は八田とみられる。上野国分寺跡(現群馬郡群馬町)から「八田甲斐女」と篦描した文字瓦が出土している。

八田郷
やたごう

「和名抄」所載の郷。東急本に「也多」と訓ずる。遺称地は現七尾市矢田やた町で、郷域は同地から七尾湾に向かって広がっていたと考えられる。同市八田はつた町を遺称地とする説もあるが(能登志徴・加能郷土辞彙)、同町は越蘇えそ郷の遺称地である七尾市江曾えそ町に近すぎる。推定郷域内には径三一メートル、高さ六・五メートルの円墳である矢田丸山やたまるやま古墳や、全長約五八メートルの高木森たかぎもり古墳を有する矢田古墳群、弥生時代後半から古墳時代、奈良・平安時代にわたる複合集落遺跡の矢田遺跡があり、五、六世紀代に強力な政治勢力が存在していたことを物語る。

八田郷
やたごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。高山寺本に「夜太」、東急本に「也太」の訓がある。ハタと訓む説もあるが、藤枝市のこおり遺跡(益頭郡家跡と推定される)から「下 矢田子毛人」と記された木簡が出土しており、益頭郡に矢田部氏の分布が確認されるのでヤタと訓むべきである。天平七年(七三五)一〇月の平城京跡出土木簡(「平城宮木簡概報」三一―二五頁)に「益頭郡□□(八多カ)□」とみえる。

八田郷
やたごう

「和名抄」高山寺本は「也多」、東急本も「也太」と訓じている。「やた」の地名は当郡には残存していない。「上野国神名帳」に「従三位八田明神」が記載され、郷名を伝えているが、比定しうる神社が見当らない。わずかに渡良瀬川に流入する谷田川あるいは矢田川に郷名の関係をみるのみである。郷域について「日本地理志料」は現館林市東部から現板倉いたくら町・明和めいわ村の広域な地を想定している。

八田郷
やたごう

「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本にみえ、いずれも訓を欠く。他国の同名の郷で訓をもつものには、「夜太」(高山寺本)・「也多」(東急本・元和古活字本)とあり、当郷も「やた」とよんでいたものとしてよかろう。

郷域について、「大日本地名辞書」はその増補において現名古屋市中川区八田はつたの地にあて、八田の地が、愛智郡に属するについては庄内川の河道の変遷を理由としている。

八田郷
やたごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本は「夜多」、東急本は「也多」と訓ずる。遺称地は現小松市矢田やた町・矢田野やたの町・矢田新やたしん町で、郷域はこれらを含む三湖台さんこだいとその周辺とされる。三湖台は小松市の西郊に近く、今江いまえ木場きば柴山しばやまの三つの潟に囲まれた低丘陵地。付近に六世紀代を中心に形成された前方後円墳六基を含む約三〇基の三湖台古墳群が展開する。

八田郷
やたごう

「和名抄」高山寺本に「八田」と記し、訓を欠くが、刊本(慶安元年)は「ヤタ」と仮名を付す。現山口市の矢田やたはその遺名とみられ、ここを中心とした地域、すなわち、山口市矢田から小鯖おさばにわたる一帯であることに異説はない。

八田郷
やたごう

「和名抄」東急本に「也多」と訓ずる。郷域は西尾市西南矢田やた村があり、西尾市西南部にその故地を求めることに諸説一致している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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