八条院(読み)はちじょういん

改訂新版 世界大百科事典 「八条院」の意味・わかりやすい解説

八条院 (はちじょういん)
生没年:1137-1211(保延3-建暦1)

平安末~鎌倉初期の女院(によいん)。鳥羽天皇の第3女。母は藤原長実の女美福門院得子。名は暲子。1138年(保延4)内親王,46年(久安2)准三宮となる。父母寵愛厚く,55年(久寿2)近衛天皇の死後,鳥羽は暲子を女帝に立てようとしたといわれる(《今鏡》)。57年(保元2)出家し法名は金剛観,61年(応保1)二条天皇の准母として院号宣下。后位を経ることなく院号を得た初例とされている。八条東洞院を居所とし,膨大な院領を保持する八条院は,その後も政治に影響力をもった。以仁王(もちひとおう)の子女を庇護し,80年(治承4)以仁王の挙兵のさい,その子を追捕(ついぶ)すべく平家の軍勢は女院の居宅を囲んだ。また平家一門の都落のさい平頼盛を保護し,九条兼実も接近を図っている。墓は京都市右京区鳴滝中道町にある。

鳥羽上皇は,出家した1141年(永治1)御願寺(ごがんじ)領を含めて,集積した荘園群の一部,9ヵ所を美福門院に,12ヵ所を暲子に処分しているが,鳥羽の死後そのすべてが美福門院から八条院に譲られた。その間にも平頼盛,藤原長経などの受領(ずりよう)の寄与により荘園の数はさらに増加し,76年(安元2)2月の前闕の目録(〈山科家古文書〉)には,歓喜光院領17以上,弘誓院(ぐせいいん)領6,智恵光院領1,蓮華心院領4,庁分(女院庁の直接管理する荘分)40がみえ,これに安楽寿院領を加えた荘園群が成立している。八条院は96年(建久7)九条兼実の子良輔に譲った庁分の一部を除き,すべて以仁王の女に譲与したが,1204年(元久1)この女性死去したため,結局この荘園群は後鳥羽天皇の女で,兼実の女任子を母とし八条院の猶子となった春華門院昇子の手中に入った。しかし春華門院は八条院の後を追うように同じ年(1211)に世を去り,八条院領はその猶子順徳天皇に伝えられ,後鳥羽の管領下に入った。

 承久の乱後,幕府はいったんこれを没収したが,あらためて後高倉院に進めた。そのとき(1221)の目録によると荘園数はさらに増加し,庁分79,安楽寿院領48,歓喜光院領26,蓮華心院領15,智恵光院領5,真如院領10,弘誓院領8,禅林寺今熊野社領3,〈新御領〉2,〈京御領〉21,祈禱所4などとなっている(〈三宝院文書〉)。23年(貞応2)後高倉院は死の直前,その女安嘉門院邦子に八条院領のすべてを譲った。83年(弘安6)安嘉門院は死去,膨大な荘園は後堀河天皇の女室町院の手中に入ろうとした。しかし亀山上皇は関東に申し入れて八条院領の伝領承認を求め,幕府もこれを認めたので,この荘園群はすべて亀山の管領下に入り,大覚寺統の最大の経済的基盤となったのである。1302年(乾元1)亀山はいったんそのすべてを後宇多上皇に譲るが,05年(嘉元3)これを改め,庁分を後宇多に与えたのみで,他の御願寺領を後宇多の異母弟恒明親王に譲る。06年(徳治1)の目録によると荘園数はさらに増えているが,亀山の死後,後宇多は安楽寿院領を除き他の御願寺領を恒明から取り戻し,08年(延慶1)一期(いちご)の後(当人死後)はすべて後二条天皇の子邦良親王に譲与する条件で,子息尊治親王(後醍醐天皇)に譲った。こうして八条院領の大部分は後醍醐の管領するところとなったが,建武新政崩壊の結果,その実をほとんど失うにいたった。
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百科事典マイペディア 「八条院」の意味・わかりやすい解説

八条院【はちじょういん】

平安末〜鎌倉初期の女院(にょいん)。鳥羽天皇の第3女。母は藤原長実(ながざね)の女美福門院得子(びふくもんいんとくし)。名は【しょう】子(しょうし)。1138年に内親王,1146年に准三宮(じゅさんぐう)となる。1157年に出家,法名は金剛観(こんごうかん)。1161年二条天皇の准母として院号宣下(いんごうせんげ)。后位を経ずに院号を得た初例とされる。八条東洞院(ひがしのとういん)を居所とし,膨大な八条院領を保持した。
→関連項目大内荘千葉荘拝師荘(拝志荘)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八条院」の意味・わかりやすい解説

八条院
はちじょういん
(1137―1211)

暲子(しょうし)内親王。鳥羽(とば)天皇第五皇女。母は美福門院(びふくもんいん)。1146年(久安2)准三后(じゅさんごう)、57年(保元2)落飾、法名金剛観(こんごうかん)。61年(応保1)八条院の院号を宣下(せんげ)された。両親の寵愛(ちょうあい)を受け、膨大な所領を譲られ、八条院領としてたいへんな勢力があった。後鳥羽(ごとば)天皇皇女昇子(しょうし)を猶子(ゆうし)とし、この所領は同天皇に伝えられた。後半生は両親の菩提(ぼだい)を弔うことに専心した。墓は京都市鳴滝(なるたき)。

[飯倉晴武]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八条院」の意味・わかりやすい解説

八条院
はちじょういん

[生]保延3(1137).4.8. 京都
[没]建暦1(1211).6.26. 京都
鳥羽天皇の第3皇女。名,しょう子。法名,金剛観。母は贈太政大臣藤原長実の娘,皇后得子 (美福門院) 。保延4 (1138) 年内親王宣下,久安2 (46) 年には准三宮の宣旨をこうむり,本封のほか 1000戸を与えられた。保元2 (57) 年落飾。応保1 (61) 年 12月八条院と称した。后位につかない内親王で院号宣下のあった初例。墓は京都市右京区鳴滝中道町にある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八条院」の解説

八条院 はちじょういん

1137-1211 平安後期-鎌倉時代,鳥羽(とば)天皇の皇女。
保延(ほうえん)3年4月8日生まれ。母は美福門院得子(とくし)。内親王,准三宮(じゅさんぐう)となるが,保元(ほうげん)2年出家。応保元年(1161)二条天皇の准母として八条院の院号をあたえられる。皇后とならずに女院となった最初の例。膨大な八条院領を有し,政治的におおきな影響力をもった。建暦(けんりゃく)元年6月26日死去。75歳。名は暲子(しょうし)。法名は金剛観。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「八条院」の解説

八条院
はちじょういん

1137.4.8~1211.6.26

平安末~鎌倉前期の女院。名は暲子(しょうし)。鳥羽天皇の第3皇女。母は藤原長実の女で天皇の寵妃美福門院得子(とくし)。1138年(保延4)内親王,46年(久安2)には准三宮。57年(保元2)出家し,法名は金剛観。61年(応保元)二条天皇の准母として,内親王としてはじめて院号を宣下された。父母の寵愛をうけ,八条院領と称される膨大な所領を譲られた。以仁王(もちひとおう)を猶子(ゆうし)とし,またその子女を養育した。

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367日誕生日大事典 「八条院」の解説

八条院 (はちじょういん)

生年月日:1137年4月4日
平安時代後期;鎌倉時代前期の女性。鳥羽天皇の第3皇女
1211年没

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世界大百科事典(旧版)内の八条院の言及

【平頼盛】より

…後白河院庁別当。また八条院の乳母の娘宰相局(さいしようのつぼね)(後白河院近臣の僧俊寛の姉妹)を妻とした関係から,八条院ときわめて近い関係にあった。この八条院および後白河院と密接な関係にあったことが,平家一門の中での頼盛の立場を微妙なものとした。…

【女院】より

…なお郁芳門院は堀河天皇の准母であるが,従来の例とは異なり非妻后の皇后である。さらに鳥羽上皇の皇女子内親王も皇后に冊立されなかったが,准三宮(じゆさんぐう)の宣下をうけ,ついで二条天皇の准母となって1161年(応保1)12月八条院の院号を宣下され,また後白河天皇皇女覲子内親王も妻后でなかったが准后宣下を被り,1191年(建久2)6月宣陽門院号を下されている。なお宣陽門院は八条院とは違い,准母ではなかったが,准后を共通にしている。…

【矢野荘】より

…秦氏はこれを修理大夫藤原顕季に寄進,それが顕季の孫で鳥羽上皇の皇后美福門院得子に伝えられ,1136年(保延2)鳥羽院庁牒によって正式に立券,ここに美福門院領として矢野荘を称することとなった。美福門院は御願寺として歓喜光院を創建,矢野荘はその所領となったが,美福門院の没後はその子八条院子に伝えられた。67年(仁安2)美福門院の乳母伯耆局は矢野荘領家職を賜るが,このとき矢野荘の一部を歓喜光院の寺用にあてることとした。…

※「八条院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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