億計天皇弘計天皇(読み)おけのすめらみことおけのすめらみこと

改訂新版 世界大百科事典 「億計天皇弘計天皇」の意味・わかりやすい解説

億計天皇・弘計天皇 (おけのすめらみことおけのすめらみこと)

弟の弘計天皇は23代顕宗(けんぞう)天皇,兄の億計天皇は24代仁賢(にんけん)天皇。17代履中天皇の孫。この兄弟は父の市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ)が21代雄略天皇に殺された後,流離して播磨国の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)忍海(おしぬみ)部細目の馬飼牛飼として仕えたが,二十数年後の新嘗の夜,国司の来目(山部連)部小楯に舞いつつ歌って身分をあかし,叔母の忍海郎女(いらつめ)に迎えられて血統の絶えた皇位を継ぎ,顕宗天皇,仁賢天皇となる。しかしこの流離の話には馬飼牛飼に関連した要素が多く,また2王の食物を奪った,目に入墨をした老人の山代の猪飼前記の細目,父の墓を知らせた狭狭城山君置目(ささきやまのきみおきめ)など,目を名にもつ山部系の人物が多い。歴史的事実とは考えられない由縁である。弘計天皇は一名を来目稚子(くめのわくご)と言う。《万葉集》巻三には来目(久米)氏の伝えた流離譚らしい,来目稚子を歌った作がある。雄略の血統を伝える仁賢天皇の娘の手白髪郎女が,継体天皇皇后であったとなっていることを参考にすると,この2王の話は,6世紀の継体の新皇統と,5世紀の履中系,雄略系の皇統とを結ぶために,来目稚子の伝承を基として作為された公算が強く,2王の実在もまた疑問である。
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世界大百科事典(旧版)内の億計天皇弘計天皇の言及

【縮見屯倉】より

…兵庫県三木市志染町付近にあったミヤケ(屯倉)。この地は《播磨国風土記》美囊(みなぎ)郡志深里,《和名抄》同郡志深郷の故地にあたる。《日本書紀》の清寧2年条によると,播磨国の司(みこともち)の山部連の先祖,伊予来目部小楯が,縮見屯倉首忍海部造細目のもとに身をよせていた市辺押磐皇子の子,億計(おけ)・弘計(おけ)両皇子(仁賢・顕宗天皇)を新室(にいむろ)の宴で見つけだしたとある。《古事記》では,山部連小楯が播磨国宰(みこともち)として赴任したとき,志自牟なる人物の新室の宴席で2皇子を見いだしたとある。…

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