三田町(読み)さんだちよう

日本歴史地名大系 「三田町」の解説

三田町
さんだちよう

[現在地名]三田市三田町・中央町ちゆうおうちよう屋敷町やしきまち天神てんじん二丁目

江戸時代の三田藩の陣屋町。武庫むこ(三田川)の右岸丘陵に築かれた三田陣屋を中心にして、陣屋を取囲むかたちで侍屋敷が丘陵上に、段丘下の低平地に町人町が配置された。町場は武庫川右岸の三田村内および同川左岸の三輪みわ村内に成立し、領内においては三田村は万治元年(一六五八)に三田町分(本町・北町・南町とのちの東三田村を含む)を分離し、三輪村は慶長八年(一六〇三)三輪町(桶屋町・新町)を分離したという(有馬郡誌)

〔町場の創設〕

天正年中(一五七三―九二)荒木平太夫が三田村の内に築いた車瀬くるませ(三田城)城下町として三筋の城下町を設けたという(西方寺文書)。三田城は元和元年(一六一五)に廃城になるが(「三田歴代領主調」九鬼家文書)、町場は維持された。慶長国絵図では「三田村・町」がみえ、高一千九〇石余。町場は三田村の北東部に武庫川両岸にわたって描かれ、大坂方面からは道場河原どうじようがわら(現神戸市北区)からと大原野おおはらの(現宝塚市)から田中たなか村経由で町場に至る道があり、西へは武庫川左岸沿いに播磨国・丹波国へ向かう道、北方の三輪村から尼寺にんじ村・母子もうし村経由で丹波国へ向かう道が通り、すでに宿場として機能していたようである。古文書写(三田町弘法教会蔵)によれば、太閤検地で三田村高七七二石余・町分高三一八石余、福知山藩領時代の有馬玄蕃頭検地で三田村高一千三〇九石余・町分高五三九石余に増加したとみえ、領内では早くから町分を分離して扱っていた可能性もある。

〔町の整備〕

寛永一〇年(一六三三)九鬼久隆が志摩国鳥羽とば(現三重県鳥羽市)から三田藩三万六千石に入部(寛文朱印留)、城の建設は許可されなかったため、三田城跡地の南西丘陵上に居館と領内支配のための陣屋を構築し、町場は従前の町割を利用し整備した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報