佐貫村(読み)さぬきむら

日本歴史地名大系 「佐貫村」の解説

佐貫村
さぬきむら

[現在地名]河原町佐貫

北西から北へ流れを変える千代川と、その支流北東流する宇戸うど川との合流点付近に位置し、北は曳田ひけた村、南西水根みずね村。村内は上村下村に分れていたようで、支村として東村・西村・中村・みず黒田くろだがある(因幡志)。散岐・讃岐などとも記し、「和名抄」にみえる八上やかみ散岐さぬき郷の遺称地とされる。康永三年(一三四四)八月二二日の願文(熊野那智大社文書)に熊野修験の因幡国檀那として「讃岐郷 浄徳」の名がみえる。天文二一年(一五五二)の医王山大安興寺再興勧進願文(因幡民談記)には「八上郡散岐郷医王山大安興寺」と記され、戦国期には当地上流の大安興だいあんこう寺が所在した現在の用瀬もちがせ鷹狩たかがり付近まで郷域に含まれていたと思われる。永禄四年(一五六一)八月吉日には「さぬき市は」一円の伊勢道者職が北弥七郎に売渡されており(「福島甚二郎末国売券」来田文書)、市場の存在も想定される。

佐貫村
さぬきむら

[現在地名]睦沢町佐貫

大上おおがみ村の北西にある。夷隅いすみ郡に属した。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千四一〇石で、幕末までほぼ変わらない。延宝八年(一六八〇)の年貢は米一千一一四俵のうち検見引一一〇俵とされている(睦沢町史)。宝暦三年(一七五三)当時は七〇石余が幕府領で、高六三五石余が旗本丸橋・竜神・手島(二氏)・平井・渡辺・松山・片岡・益田・和田・山下・吉田・桜井・根岸・鈴木・高橋・佐久間・上野・栗林一九氏の相給(「村明細帳」江沢家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二〇六で、旗本吉川領と与力給知。

佐貫村
さぬきむら

[現在地名]龍ケ崎市佐貫町

牛久うしく沼南岸の低地にあり、東と北は若柴わかしば村。寛永年間(一六二四―四四)小貝こかい川の流路変更により開墾が進められ、正保(一六四四―四八)以後若柴村から分村と伝える(新編常陸国誌)。天和二年(一六八二)牛久沼用水川払出入訴訟申上書付(川原代区有文書)に「太田摂津守御知行 左貫」とあり、牛久沼の水利権をめぐって、川下の村々から訴えられているので、流路変更後直ちに開墾が行われたと思われる。

佐貫村
さぬきむら

[現在地名]塩谷町佐貫

船生ふにゆう村の東、鬼怒川左岸に位置する。「和名抄」塩屋しおや散伎さぬき郷に比定され、建保五年(一二一七)銘の佐貫観音銅版曼荼羅に「氏家郡讃岐郷」の陰刻がある。今宮祭祀録(西導寺蔵)によると、今宮いまみや神社(現氏家町)に社家役として「佐貫之村」は廻楼東分の一間を勤めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報