佐川村(読み)さかわむら

日本歴史地名大系 「佐川村」の解説

佐川村
さかわむら

[現在地名]佐川町こう

春日かすが川に臨む佐川盆地の中心で、「土佐州郡志」に「東限加茂界切塞坂峠高知之通路也、西限三野界比枝之坂山山分之通路也、南限斗加野界猿丸山峠海浜之通路也、北限三野界小池山、東西二十三町余、戸凡三百六十六」とある。中世の佐川本郷の東南部が独立村となったもので、天正一八年(一五九〇)の佐川郷地検帳ではまだ佐川村は認められないが、慶長六年(一六〇一)土佐藩家老深尾重良に与えられた佐川領一万石の領知宛行状(深尾家文書)に「五拾九町四十四代壱分 佐川本村」とあり、これに旧郷内の「弐拾五町六反廿八代三分 内原村」を加えて成立。深尾氏の土居と家中町および土居下の町人町があり、佐川領一八ヵ村の政治的・経済的中枢として、佐川本村または単に本村と領内ではよばれた。なお佐川郷地検帳にみえる小村のうち春日蔵宝院谷ぞうほういんだに(蔵法院)松崎まつざきが通称として残る。

元禄地払帳では総地高九〇二石余、うち本田高八八五石、新田高一六石余。本田のうち四九石余は青源せいげん寺領、残りは深尾若狭知行、新田はすべて同人役知。幕末の新田高は八六石余(明治三年郷村高帳)。寛保郷帳では戸数二六二、人数一千八九、馬六八、牛一四。

佐川村
さがわむら

[現在地名]江府町佐川

北西流する日野川東岸に位置し、集落は川岸近くの平地に集中する。北は柿原かきばら村。村名の由来は鑪製鉄による砂川の転訛と考えられ、日野川が狭まるところから狭川にちなむという説もある(江府町史)。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳は「サカワ」と訓ずる。村内を通る日野往来は当村で東岸路と対岸の久連くれ村に渡る西岸路に分岐する。同往来は出雲松江藩主の参勤交代の折、日野川の増水で出雲街道の溝口みぞくち(現溝口町)が渡河不能になった場合に利用される道であったが、江尾えび川・武庫むこ川があって馬越しができず、駕籠人足のみ通行可能であった(安永大成道中記提要)。なお溝口宿―根雨ねう宿(現日野町)間は江尾通ともよばれていた。元亀二年(一五七一)と推定される八月二〇日の毛利元秋書状(湯原文書)末石すえいし(現大山町)の落城について記され、「其外寺内、鍋坂、菊地城、佐河無残静謐候」とあるが、佐河は当地のことであろう。

佐川村
さがわむら

[現在地名]大津市真野佐川町まのさがわちよう真野大野まのおおの一丁目

大野村の北に位置する。「本福寺跡書」に、堅田の四月の祭礼に一味同心して神事を行う地区として「佐川」とみえる。永禄七年(一五六四)四月の近江国左河庄百姓中申状案(壬生家文書)に佐河庄百姓中とみえ、佐河庄商人は往古から筵商売をしてきたが、四月の初め杉原御内衆と称す者が筵商売を咎め、打擲に及んだうえ筵二荷を押えるという理不尽を行った。在所に使者を派遣して糾明すべきことを壬生家外記の御内衆に求めている。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)に一一五石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報