佐原町(読み)さわらまち

日本歴史地名大系 「佐原町」の解説

佐原町
さわらまち

[現在地名]佐原市佐原・きた

現佐原市域の利根川南岸沿い中央に位置する町場。同川支流の小野おの川下流両岸の集落を中心とし、河口に佐原河岸がある。東西に銚子道が走り、成田道を分岐する。郷帳類や地方文書には佐原村として登場し、小野川右岸を本宿ほんじゆく、左岸を新宿しんじゆくと大別して呼称する。本宿の領域は中世の香取社領佐原村とみられるが、戦国期に北部の香取海の洲島開発に伴って新宿が成立。香取海の用益をめぐって元和期(一六一五―二四)以前から佐原村は篠原しのわら村・津宮つのみや村とともに郷三ヵ村と称して連携を保ち、新田の開発を展開したという。また網代場と称する漁労権も保持し、元和頃からいわさき村・大倉おおくら村を加えた根郷五ヵ村を結成した(正徳四年「根郷五箇村谷地御定納記」伊能家文書)。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では佐原村として検地高一千八一七石余、枝村として関戸せきとがある(「部冊帳」同文書)。同年の検地帳(同文書)には佐原郷とみえる。同七年の矢作領主鳥居忠政の転封に伴って幕府領となったが、同一三年頃から旗本の相給支配となり、本宿では本宿組三五〇石が天方領、浜宿組五〇〇石が興津(奥津)領、仁井宿組一一七石余が青山領、新宿では下宿組五〇〇石が前記興津領、上宿組三五〇石が近藤領。青山領であった仁井宿組は寛永一〇年(一六三三)幕府領となるが、寛文元年(一六六一)佐倉藩領となった(以上、前掲部冊帳、「寛文朱印留」)

しかし元禄(一六八八―一七〇四)の地方直しで仁井宿組は上宿組と同じく近藤領となり、元禄一三年頃の下総国各村級分では佐原村は高一千八三〇石余、旗本奥津・近藤・天方三氏の相給。元文四年(一七三九)利根川の流作場開発に伴い幕府領となったが、安永六年(一七七七)旗本津田領となる。元治元年(一八六四)常陸水戸藩で起きた天狗党の乱の鎮圧、および治安維持のため佐倉藩領となり幕末を迎えた(以上、伊能家文書など)。なお弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では佐原村は津田領二千一六四石余と幕府領一千六六二石余(無民家持添)の相給となっているが、幕府領は佐原新田をさしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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