伯夷・叔斉(読み)はくいしゅくせい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伯夷・叔斉」の意味・わかりやすい解説

伯夷・叔斉
はくいしゅくせい

中国、殷(いん)周交代期(前1100前後)のころの伝説的な聖人兄弟。伯・叔は長幼を示す。『史記』伯夷列伝によると、殷代の孤竹(こちく)国の国君の子。父の死後、位を譲りあって、ついにともに国を逃れ、周の西伯昌(せいはくしょう)(文王)の徳を慕って周へ行った。しかし、周の武王が父文王の死後すぐに殷の紂(ちゅう)王を討ったことを、不孝、不仁として周の粟(ぞく)を食(は)むことを拒み、首陽山に隠れてワラビを食とし、ついに餓死したという。その行いは孔子以来、儒家によって「仁」と高く評価されているが、一方、司馬遷(しばせん)はこの話から天道の是非、個人が歴史に名を残すことの偶然性などを思い、この伯夷列伝を『史記』列伝の最初に置いた。

[安倍道子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伯夷・叔斉」の意味・わかりやすい解説

伯夷・叔斉
はくい・しゅくせい
Bo Yi Shu Qi

中国,殷周交代期 (前 1100頃) に現れた賢人の兄弟。孤竹国 (河北省?) の公子。父が弟の叔斉を世継ぎにしたが,叔斉は兄の伯夷に譲ろうとし,ついに2人とも位を捨て去った。彼らは周の文王を慕って,その地に行ったところ,武王の伐殷の役にあい,これを不仁な行いとして武王に諫言した。武王がこれを聞き入れず,周王朝が成立すると,伯夷と叔斉は不義の粟 (ぞく) を食わずといって首陽山に隠れ餓死したという。一種の賢人伝説であるが,司馬遷は「伯夷列伝」を書いて,『史記』「列伝」の首章においた。

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百科事典マイペディア 「伯夷・叔斉」の意味・わかりやすい解説

伯夷・叔斉【はくい・しゅくせい】

中国の古代伝説上の賢人兄弟。伯夷が兄,叔斉は弟。孤竹国の公子。周の武王が殷(いん)の(ちゅう)王を討つのは不義であるとし,首陽山に隠れ,ワラビのみを食し,餓死して清節を保ったという。仁の思想に仮託された人物像か。

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