伏屋村(読み)ふせやむら

日本歴史地名大系 「伏屋村」の解説

伏屋村
ふせやむら

[現在地名]岐南町伏屋

三宅みやけ村の南に位置。天正一〇年(一五八二)一一月、当地の土豪伏屋氏は織田信孝から「ふせや方」八〇貫文(「かけ山分」とある)と「かわの方」一四八貫文を扶助分として与えられている(「織田信孝黒印状」伏屋文書)。同氏はこの年八月九日に織田信雄から九六貫文余の知行を安堵されていた(「織田信雄知行安堵状」同文書)。しかし同一二年の小牧長久手の戦に際しては羽柴秀吉方にくみしたとみえ、同年六月一二日秀吉は、伏屋市兵衛に伏屋城留守居を申付けており(「羽柴秀吉判物」同文書)、六月には伏屋郷に禁制を下している(「羽柴秀吉禁制」同文書)

伏屋村
ふせやむら

[現在地名]丸岡町伏屋

丸岡城下の北東方、赤坂あかさか村の西に位置する農村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では田屋たや村のうちに含まれていた。はつもりのうちの一村(→田屋村正保郷帳には「伏屋三本木赤坂村」とみえ、元禄郷帳以降分村。当村は三一八・八五石であった。福井藩領。

安永二年(一七七三)の福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によると田一一町一反余・畑八反余。

伏屋村
ふしやむら

[現在地名]中川区富田とみだ町伏屋

東は庄内川を越して横井よこい(現中村区)、中央をしん川が流れ、西は春田はるた村に接する。寛文一一年(一六七一)の家数七九、人数四四四(寛文覚書)。「徇行記」によれば、概高八六一石余のうち六九四石余は藩士一一人の給知。田は三三町一反四畝余、畑は一四町一反二畝余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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