伊香保温泉(読み)イカホオンセン

デジタル大辞泉 「伊香保温泉」の意味・読み・例文・類語

いかほ‐おんせん〔‐ヲンセン〕【伊香保温泉】

渋川市の温泉。急な石段の両側に旅館が並ぶ。垂仁すいにん天皇のころの発見といわれる。泉質単純温泉硫酸塩泉など。

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精選版 日本国語大辞典 「伊香保温泉」の意味・読み・例文・類語

いかほ‐おんせん ‥ヲンセン【伊香保温泉】

群馬県北群馬郡伊香保町にある温泉。垂仁天皇の頃発見されたという。含塩炭酸鉄泉。皮膚病貧血症婦人病に効く。いかお温泉。

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日本歴史地名大系 「伊香保温泉」の解説

伊香保温泉
いかほおんせん

[現在地名]伊香保町伊香保

ふたッ岳の北東急斜面にあり、石段の温泉として知られる。口碑によれば垂仁天皇の頃に二ッ岳より湧出し、行基により発見されたという。赤木文庫本「神道集」には「伊香保ノ御湯」とみえ、伊香保大明神の守護するところであった。室町時代から都人にも知られていたとみえ、文明一八年(一四八六)九月、京都常光じようこう院の僧尭恵は草津くさつ温泉(現吾妻郡草津町)から「いかほの出湯」に移り、一週間ほど滞在して榛名はるな山や榛名湖に遊んでいる(北国紀行)。文亀二年(一五〇二)には連歌師宗祇も中風に効ありと聞き及んで入浴している(宗祇終焉記)。「北国紀行」や「宗祇終焉記」に記される伊香保湯は現在の湯元の地にあったものと思われる。同地から近世の温泉街への移住を直接証する資料はないが、享和二年(一八〇二)の仁泉亭記(千明文書)によれば天正四年(一五七六)のことと推察される。また同書は同年長尾氏は伊香保の地を七氏に分け与えたとも記す。しかし元禄一一年(一六九八)当地を訪れた跡部良顕の「伊香保紀行」には「伝えに百五十年前上杉定正其臣長尾景春入道伊玄此地を領し処士五人に分ちあたえ浴室をかまえ筧を以て温泉をとり病人を浴せしむ」とあり、天文―永禄年間(一五三二―七〇)にはすでに処士五人は伊香保に入部していたとも考えられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊香保温泉」の意味・わかりやすい解説

伊香保温泉
いかほおんせん

群馬県中部、渋川市(しぶかわし)伊香保町伊香保にある温泉。温泉の発見は、垂仁(すいにん)天皇のころといわれ、『万葉集』には「伊香保嶺(いかほね)に雷(かみ)な鳴りそね我(あ)が上(へ)には故(ゆえ)はなけども児(こ)らによりてそ」など9首が詠まれている。関ヶ原の戦い(1600)ののち、長尾氏の遺臣12人が土着して郷士となり、開発に努めてから湯治場として知られるようになり、明治初年の錦絵(にしきえ)には西洋人の入湯している場面もみられる。だが、全国的に有名になったのは、徳冨蘆花(ろか)の小説『不如帰(ほととぎす)』のなかに主要な場面として現れてからで、1931年(昭和6)の現JR上越線全通後に京浜地方の休養地として発展してきた。泉源は集落上部の温泉神社より奥にあり、泉質は含鉄泉、塩化物泉で湯は茶褐色で鉄臭味がある。温泉街は300余段の階段をもつ石段街を中心に、旅館や土産物(みやげもの)店が並ぶ。上越線渋川駅からバス25分。また高崎駅からのバスの便、東京・新宿からの高速バスの便がある。付近にはゴルフ場、群馬県総合スポーツセンター伊香保リンク、竹久夢二伊香保記念館徳冨蘆花記念文学館、保科(ほしな)美術館伊香保切り絵美術館、スケート資料館、県立伊香保森林公園などがあり、9月中旬には伊香保まつりが行われる。榛名湖畔へも道路が通じている。

[村木定雄]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊香保温泉」の意味・わかりやすい解説

伊香保温泉
いかほおんせん

群馬県中部,渋川市榛名山東麓にわく温泉。急な石段を挟んで雛壇状に旅館や飲食店が並び,にぎやかな温泉街を形成している。泉質は硫酸塩泉。湯は酸化鉄によって茶褐色を呈する。泉温は 42~64℃。鉄分を多量に含む湯で,古くから女の湯として名高く,婦人病や不妊症特効があるといわれる。源泉近くには露天風呂,石段の下には共同浴場「石段の湯」がある。竹久夢二徳冨蘆花の記念館があり,レジャーランドなど観光施設も多い。

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