伊勢村(読み)いせむら

日本歴史地名大系 「伊勢村」の解説

伊勢村
いせむら

[現在地名]蘇陽町伊勢

川走かわばしり川および旅草たびぐさ川の上流にあり、明治九年(一八七六)の合併により成立した村名。東は竹原たけばる村、西は高森たかもり(現高森町)、北は矢津田やつだ村・高尾野たかおの(現高森町)、南は長谷ながたに村に接する。近世には北から梶原かじわら村・旅草村が並び、南郷谷を東に越え九十九曲を過ぎるとやなぎ村がある。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所たひくさ二百文 まめ一斗」などとみえ、梶原は収納使の宿泊地となっている。

伊勢村
いせむら

[現在地名]守山市伊勢町

勝部かつべ村の南に位置。中山道と東海道を結ぶ道(通称伊勢道)に沿って開かれた。古代条里の一里分にほぼ相当する村域をもつ。慶長八年(一六〇三)上野館林藩主榊原康政の在京賄料として与えられた(榊原政春家文書)。元和七年成箇帳(芦浦観音寺文書)に村名がみえ、幕府領の高一九五石余(うち引方はいもち損二三石余・永荒一石余)、有高一七〇石余、年貢高七九石余(うち七石余が大豆納)。寛永石高帳によれば高八一九石余。正保郷帳によれば同高のうち三四一石余が越後三条藩領、一六八石余が上野前橋藩領、三〇八石余が旗本渡辺茂領。慶安高辻帳では田七九一石余・畑二七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報