仏原村(読み)ほとけはらむら

日本歴史地名大系 「仏原村」の解説

仏原村
ほとけはらむら

[現在地名]大野市仏原

荒島あらしま岳の北東麓、九頭竜くずりゆう川の峡谷にある。北は下打波しもうちなみ村。枝村としてくずはらがあった(越前国名蹟考)。村名は慶長八年(一六〇三)五月二三日付の筏乗場の掟書(清水家文書)にみえ、同一一年頃の越前国絵図では「五ケ村」に含まれていた。正保郷帳によれば畠方のみ四石余。享保六年(一七二一)七月付の五ケ六ケ村田畑町歩之覚(島田家文書)では総田畑数一町二反八畝余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領。

仏原村
ほとけのはるむら

[現在地名]久住町仏原

冷川ひやがわ村の北西、冷川中流域左岸に位置。正保郷帳に村名がみえ、朽網くたみ郷に属し、田高六二石余・畑高四〇石余、水損所がある。旧高旧領取調帳では高三二四石余。文禄三年(一五九四)に入部した中川秀成は朽網氏の旧臣松尾了正を召出したが、辞退したので息の重兵衛を仏原組千石庄屋(のち大庄屋)任命、当村が同組の中心村となった(久住町誌)。享保九年(一七二四)の耶蘇宗門并類族改帳(武藤家文書)によれば類族女二人。

仏原村
ほとけばるむら

[現在地名]清和村仏原

西は大河おおかわ村、南は阿蘇郡ほう(現蘇陽町)と接する大矢おおや川沿いの集落大川おおかわ集落の北東、字城林じようばやしに仏原城跡がある。城主などについては不明。付近にじようさき城の内しろのうち南城みなみじようさきの字名が残る。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し、「国誌」は梅野木村・鶴村・立神村・尾園村などの小村を記し、村名の由来について「里俗ノ説ニ、古ヘ当所梅野木村辺ノ畑ノ塊多クハ立像座像ノ仏躰ニ似タル土塊也シト云伝フ」としている。延宝二年(一六七四)一月五日に当村の郷士結城兄弟を中心に方ヶ野村を加えた地侍・百姓が謀議して反乱を企てたが、兄弟は斬殺され、五三人が入牢、うち一九人は牢死、一三人が処刑された仏原騒動が起きている(「雑記」矢部町井上久雄氏蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報