今福浦(読み)いまふくうら

日本歴史地名大系 「今福浦」の解説

今福浦
いまふくうら

中世からみえる浦。文暦二年(一二三五)九月二四日のいわひろの尼譲状案(有浦文書)に「いまふく」とみえ、志佐しさ浦の田地などを含む御厨清の遺領を清の妻と思われるいわひろの尼が子息に配分しているが、そのなかに「ことうたへたう」(小藤太別当)の園、山の田が含まれていた。

平安末期に松浦氏の始祖とされる源久が土着した地と伝承され、じよう山に源久の居城と伝える梶谷かじや城跡がある。久は延久元年(一〇六九)摂津国渡辺わたなべ(現大阪市中央区)から下松浦しもまつら志佐郷今福に赴き、宇野うの御厨検校および検非違使になったという(松浦家世伝)。久は嫡子の直(御厨執行兼弁済使)に下松浦の所領を譲り、庶子に上松浦(現佐賀県東松浦郡・西松浦郡)を分割相続させたと伝える。この御厨執行職は直のあと清・遶・直・定の系統に伝えられ(「松浦系図」宛陵寺文書)、嫡流に相伝されたらしく、これに伴い嫡子家は今福を含む志佐郷一帯の所領を領知したと考えられる。清の子は嫡子の廻、次子の貞、三子の渟の三人で、廻は遶と同一人物と考えられ、貞は志佐氏、渟は斑島氏を称するようになる。遶の子孫の定は志佐浦をめぐって渟の子孫の行覚と争っているが(文保二年一〇月日「斑島行覚申状」有浦文書)、御厨執行職を有するとともに有力御家人としてしばしば鎮西探題の使いを勤めている定のあとは正・直・勝・延・進・盛・定・政・親と継承され、丹後守または丹後権守を称していた(松浦系図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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