志佐浦(読み)しさうら

日本歴史地名大系 「志佐浦」の解説

志佐浦
しさうら

中世にみえる松浦まつら郡の浦。文暦二年(一二三五)九月二四日のいわひろの尼譲状案(有浦文書)に「しさのうら」とみえ、当浦の田地・園やまだら(現佐賀県鎮西町)などを含む御厨清の遺領を、清の妻と思われるいわひろの尼が子息に配分している。その内訳は「しさのうらのた、ちかもと、又わらしつくりのた、又つきのかはらとらへ、いしつくりのた、又しさのうらのその、てつからゐたるその、又ふかくらのその」などであった。またこの子息は廻(御厨太郎)・貞(御厨又五郎)・渟の三人と推定され、このうち寛元二年(一二四四)四月二三日の関東裁許状(山代文書)に肥前国御家人の一人としてみえる「志佐六郎貞」は当地を拠点とする者であったと推定され、又五郎貞と同一人物と考えられる。これによれば、山代固後家尼と益田通広の相論に際して証言を求められ、寛元元年に連署起請文を提出している。また渟は建長六年(一二五四)四月一六日付で当浦のうちの近本名田地頭代官職に一ヵ年補任する代償として、秋武太郎在高から銭一〇貫文を受取っており(同年四月一六日「源渟地頭代補任状」有浦文書)、そのため同日源渟所領近本名注文(同文書)を作成、その内訳は「御厨御庄志佐浦」のうち渟分の頭田一七町であり、うち近本ちかもと名が一一町、長田ながた名が二町、つきのかわの藤平二作が一町、わにぶちの名が二町、佐々ささ山口田やまぐちた名が一町で、ほかに金太郎きんたろう園や赤木野あかぎの蕨尾わらびおなどがあげられている。

さらに五月に二人の女童を年季売して七貫文を得て、その際に秋武の知行が終わった後の二ヵ年の知行権を担保にしている(同年五月八日「源渟人手銭請取状」有浦文書)。渟の子孫はやがて斑島氏を称するが、近本名はその斑島氏に相伝されたらしく、文保二年(一三一八)に斑島行覚は「志佐浦近元名」の波須和はすわ田地や園などを押領したとして御厨執行の丹後二郎(佐志定)を訴えている(同年一〇月日「斑島行覚申状」斑島文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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