仁和寺庄(読み)にわじのしよう

日本歴史地名大系 「仁和寺庄」の解説

仁和寺庄
にわじのしよう

淀川中流域左岸に位置する。京都御室の仁和おむろのにんな寺領庄園として成立したもので庄名もそれに由来する。成立時は仁和寺庄一庄であったが、鎌倉期に上下に分離した。庄域は近世の仁和寺村一帯と考えられるが、下仁和寺庄を守口もりぐち(現守口市)に比定する説もある(寝屋川市誌)。のち当庄は皇室領となるが、その契機は、後白河上皇の典侍七条院(後鳥羽・後高倉両院の生母)が鎌倉初期に仁和寺の管領権を得たことによる。仁和寺庄は七条院領となり、次第相承を経て小高瀬こだかせ(現守口市)などとともに室町院領となり、結局持明院統皇室領として伝領された。正安四年(一三〇二)の室町院御領目録(八代恒治氏所蔵文書)によると預所は上庄が徳景法印、下庄が妙心寺となっており、これ以前に上仁和寺・下仁和寺両庄に分離されていたことは確実である。

仁和寺庄
にわじのしよう

御室門跡・日野家領。長享元年(一四八七)閏一一月二八日と延徳三年(一四九一)八月一五日の室町幕府奉行人連署奉書(仁和寺文書)により、守護京極高清に押領された「江州仁和寺田」が御室門跡に返付・安堵されている。仁和寺庄には日野家割分の地(年貢は年間一二石、閏月は一石加増)があり、大永四年(一五二四)一一月九日室町幕府奉行人連署奉書(宝鏡寺文書)で御室門跡の同地の領有の主張が退けられ、日野勝光の娘で足利義尚室の祥雲院に安堵された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報