京町本丁(読み)きようまちほんちよう

日本歴史地名大系 「京町本丁」の解説

京町本丁
きようまちほんちよう

[現在地名]熊本市京町本丁・京町二丁目

町人町で豊前街道でもある京町二丁目から西に折れ、すぐ北に折れて直線状で京町出口番所に至る明治期の京町本丁通を中心として京町台地いっぱいに武家屋敷が広がる。この武家屋敷地は江戸時代にはすべて京町とされていたが、俗称的には柳川やながわ小路・宇土うと小路や京町台から東の坪井つぼい、西の池田いけだに通ずる坂の名称でよばれた。明治期には中心となる豊前街道が京町本丁と称し、またさきの俗称が各々丁名を呼称するようになった。当地域は京町台地のなかで最も広い地域を占めるため、中心部は整然と区画割された武家屋敷群をなし、台地西麓と、北西麓は急坂や坂からの袋小路に張付く形で武家屋敷がみられる。

京町本丁
きようまちほんちよう

筑前街道でもあり、熊本城下への北の出入口を固めるため、両側に武家屋敷が配置された。東西の中央通りより南側の東側には、寛文頃には屋敷四が並ぶ。奥入いずれも二一間で、中央通りに近い間口三〇間の大屋敷は七〇〇石番頭筑紫権左衛門で、京町本丁通と中央東西道の交差する地を警備するため配置されたのであろう。他は三〇〇石前後の知行取屋敷である。その南隣は宝暦三年頃に小笠原弥一左衛門屋敷となり、間口は変わらないが西柳川小路の二屋敷をも含む大屋敷となっている。小笠原弥一左衛門は二千石備頭一番の地位にあったようで、筑紫氏に代わって、京町台武家屋敷の監督役兼防備総指揮者として位置付けられたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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