井関池(読み)いせきいけ

日本歴史地名大系 「井関池」の解説

井関池
いせきいけ

[現在地名]大野原町五郷井関

高尾たかお山の北東麓、雲辺寺うんぺんじ山の北西麓に挟まれたかたちで所在する。溜池としての水系柞田くにた川になり、現在の貯水能力は四五万六〇〇〇立方メートル、満水面積一四・四ヘクタール、受益面積五〇〇ヘクタール。井関池由来并水掛り池々之覚(平田文書、以下とくにことわらない限り平田文書)によると、生駒家四代高俊の客臣西島八兵衛が大野原の開拓の前提として築造に着手し、樋の据付けも一部行っていたことがわかる。この樋は宮の前樋とよばれ、その後も残っていた。やがて西島八兵衛は伊勢津藩へ帰り、その後まもなく生駒家が改易となったためこの藩営事業は頓挫してしまった。その後を継ぐかたちになったのが近江商人で当時は京都に住居していた平田与一左衛門、その手代木屋庄三郎、大坂の備中屋藤左衛門・三島屋又左衛門・松屋半兵衛の五人であった。実質的には平田与一左衛門が金主で中心的存在である。

大野原新田永代覚によると、寛永二〇年(一六四三)五月丸亀藩との間で、次のような事柄が取決められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報