井関村(読み)いせきむら

日本歴史地名大系 「井関村」の解説

井関村
いせきむら

[現在地名]大野原五郷井関ごごういせき

萩原はぎはら村の南に位置し、高尾たかお山と雲辺寺うんぺんじ山とに挟まれた小盆地に集落が展開する。寛永国絵図に村名がみえ、和田わだ郷に所属。寛永一一年(一六三四)の蔵入免定状(佐伯文書)によると高六〇石余、うち上所田高二五石余(免は五ツ一分)・中所田高一六石余(四ツ)・下所田高一一石余(三ツ一分)・惣中畑高六石余(二ツ四分)・居屋敷高四斗。同一八年の小物成は炭五石(毎年一石に二匁宛銀子)であった(山崎領小物成帳)。享保一八年(一七三三)の反別は一五町三反余、高九六石余(朱印高四四石余)。定米三三石余、夏成麦は大麦・小麦合計四石二斗余、大豆六斗余、池一・湧水二(「万覚帳」佐伯文書)。宝暦一一年(一七六一)の高九四石、反別一五町余(宝暦一一年「巡見使案内諸事覚書」同文書)。新開田畑の総畝は五町近かったのに村高は享保末年段階と比較して増加していない。山間の耕地で、洪水や山崩れで永捨・年季捨となることが多かったためと考えられる(「引方畝出帳」同文書)。当村と田野々たのの内野々うちのの海老済えびすくい有木ありきの五ヵ村はやまと総称され、いずれも小村でかつ丘陵部や山間部に立地しているので、耕地条件には恵まれず生計は林業、とくに薪の伐採・販売にその経済生活のかなりを負っている(「五ヶ山薪仕来り諸事覚帳」同文書など)

井関村
いせきむら

[現在地名]三和町井関

大矢おおや村の東、時安ときやす村の西に位置し、中央を南北に東城路が通る。南部西方は亀石かめいし村に接する。下井関・亀山かめやま・井関・太刀洗たちあらいなどの古墳(群)がある。亀石との村境近くに高下田こうげた(河下田)という集落があるが、神石郡衙が神石郷(亀石を中心にした地域に所在比定される)にあったという伝えからみると、この高下田はその名残として最も可能性のある地名といえよう。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では井関村(一九八石余)・河下田村(一四一石余)の二村として高付されており、「寛文朱印留」でも同様、元禄一三年(一七〇〇)の備前検地帳以降井関村一村(高五七〇石余)となる。

井関村
いせきむら

[現在地名]阿知須町 井関・だん引野ひきの河内こうち一帯

現阿知須町の海岸部以外の大部分の地で、北は佐山さやま(現山口市)、南は東岐波ひがしきわ(現宇部市)、西は車地くるまじ(現宇部市)に接する。小郡宰判所属。

中世は賀宝かがほ(白松庄)に含まれた地域であるが、この荘園は南北に分れていたらしく、北方きたがた八幡宮が井関村域内に鎮座する。中世も末期になると隣村の佐山・岐波を合わせた地域を白松しらまつ庄という名でよび、慶長五年(一六〇〇)の検地帳では、その範囲を「白松庄」で一括している。小郡裁判文書(「閥閲録」所収)中の慶長七年三月二〇日の年号のあるものに「白松越中抱井関村之内領家分之事」とあり、井関村の名がみえるが、この地はある時期に一村を下地中分したらしく、領家方と地頭方があったようである。

井関村
いせぎむら

[現在地名]一志町井関

田尻たじり村の西南にあり波瀬はぜ川の段丘上にある。東山ひがしやまは波瀬川右岸、谷戸たんど平岩ひらいわは同左岸にあり、雲出くもず川側は断崖をなし、切通し初瀬はせ表街道が通ずる。戦国時代、北畠氏の支配下にあり、家臣松本氏がその所領とした村であったといわれる(伊勢国司北畠家秘録「美杉村史」所収)。井関神社に残る棟札によれば、享保三年(一七一八)・同六年・元文三年(一七三八)などいずれも松本氏一族による寄進・造立が行われている。

井関村
いせきむら

[現在地名]石岡市井関

霞ヶ浦の高浜入たかはまいり南岸に位置し、北は石川いしかわ村。霞ヶ浦干拓の水田地帯と台地からなる。中世は南野みなみの庄に属したといわれ、天正末期に佐竹氏の支配下に入る。文禄四年(一五九五)一族の東義久の知行地となり、同年の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「五百四拾八石四斗三升 いせき」とある。江戸時代は水戸藩領で、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高五六八・二石と記される。元禄郷帳の村高は八六九石余。「新編常陸国誌」に「旧井石ニ作リシトゾ(中略)其小名ヲ井関、代田、中郷、八木ト云フ」とあり、「水府志料」の戸数はおよそ一二四。

井関村
いせきむら

[現在地名]那智勝浦町井関

ひかりヶ峯の南麓、那智川の中流域にある。南東は川関かわせき村、北は市野々いちのの村。永徳四年(一三八四)二月七日付の執行道賢一跡配分目録(米良文書)に寛宝坊分として「井関林山同田畠等」とみえる。また応永二八年(一四二一)八月一〇日の執行道珍跡配分目録写(同文書)に、道珍より寛宝房が配分された田数のなかに「井関(垣)内田二反本ハ代壱貫五百文」がみえる。

慶長検地高目録によれば村高一四〇石余、小物成二斗六升七合。天保郷帳では村高二三六石余となっている。近世後期の「新宮領分見聞記」によると家数四〇。那智組に属し、和歌山藩新宮領。

井関村
いせきむら

[現在地名]広川町井関

殿との村の南、ひろ川を隔てて右岸にある。熊野街道が村中を南北に抜け、街道沿いに人家が点在する。南は河瀬ごのせに接し旅籠もあった。「続風土記」に「広川村領にて堰を処々に作りて荘中の田地に灌く、故に井関の名あり」とある。「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(一二〇一)一〇月一〇日条に「井関王子」がみえる。慶長検地高目録によれば村高二九一石余、小物成六斗六升一合。湯浅組に属し、「続風土記」は家数七八、人数三八五、社寺として稲荷明神社・井関王子社、小祠二(御船森・神明社)円光えんこう(西山浄土宗)・真言宗古義京勧修寺末霊泉れいせん寺を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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