井田郷(読み)いだごう

日本歴史地名大系 「井田郷」の解説

井田郷
いだごう

和名抄」所載の田口たぐち郷が改称したもので、中世にも国衙領。郷域は現犬飼町・千歳ちとせ村一帯に比定される。文治年間(一一八五―九〇)成立の宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に井田郷とみえ、北生江垣九〇間のうち一間を負担している。豊後国弘安田代注進状によれば井田郷は八〇町五段、地頭は相模三郎入道殿女子とある。相模三郎入道は建長三年(一二五一)没した北条時房三男資時で、その室は大友親秀女であった(藤姓大友系図など)。建武元年(一三三四)二月二一日、菊王丸跡である井田郷地頭職は勲功の賞として後醍醐天皇から島津上総入道(貞久)に与えられた(「後醍醐天皇綸旨」島津家文書)。だが一色範氏の預状を所持すると称する戸次頼時に押領されたため、暦応元年(一三三八)一二月二七日幕府は大友氏泰に当郷を島津貞久に渡し付けるように命じた(「室町将軍家御教書与」薩藩旧記伊地知文書)。だが頼時が承引しなかったため島津氏への下地渡付は実行できず(同二年五月四日「沙弥正全請文写」同文書)、一色氏へ井田郷宛行の実否を尋ねるなどの調査が行われた結果(同三年一二月五日「安富貞副書状与」同文書など)、観応三年(一三五二)になってようやく島津氏への下地引渡しが実現している(同年九月一六日「豊後守護代沙弥正全請文案」島津家文書など)。この間の観応二年二月一〇日戸次頼時は井田郷などの所領を嫡男福寿丸(直光)に譲渡した(「戸次頼時譲状案」立花文書)。また正平二年(一三四七)九月二〇日の恵良惟澄一族等恩賞所望闕所地注文案写(阿蘇家文書)に、恵良弥次郎惟永が当初所望しながら結局取消した闕所地としてみえる「豊後国伊田郷」も当郷をさすと推定される。

観応―文和(一三五〇―五六)頃大友惣領家に反抗して南朝方にくみしていた大友一族の平行宗は三重みえ郷の知行が相違した場合は代所として当郷を恵良惟澄に与えると約した(二月一二日「平行宗書状写」阿蘇家文書)。延文元年(一三五六)には島津貞久(道鑑)の井田郷知行が安堵されたが(同年八月六日「足利義詮安堵下文」島津家文書)、貞久代官頼兼は惟澄の濫妨を室町幕府に訴え、同五年一一月一日幕府は惟澄の違乱を停止し、当郷を頼兼に渡付するよう大友氏時に命じた(「室町将軍家御教書案」同文書)。しかし翌六年四月五日には井田郷得分物のうち一二貫文が宇治(阿蘇)惟村から肥後阿蘇南郷あそなんごう霊社に寄進された(「宇治惟村寄進状写」阿蘇家文書)

井田郷
いたごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。訓を欠くが、イタであろう。延暦一〇年(七九一)一〇月一六日の長岡京跡出土木簡(「木簡研究」二〇―五九頁)に「那賀郡井田郷」とみえる。現戸田へだ村井田を遺称地とする。比定地は現戸田村土肥とい町とする説があるが(大日本地名辞書)土肥町都比とひ郷に比定されるので、戸田村とするのが妥当であろう。

井田郷
いたごう

「和名抄」に「井田」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ茨城郡飯田村ナリ」とあり、現笠間市飯田いいだに比定する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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