井牟田村(読み)いむたむら

日本歴史地名大系 「井牟田村」の解説

井牟田村
いむたむら

[現在地名]森山町井牟田上名いむたかみみよう井牟田下名いむたしもみよう

森山村の西から南にかけて位置し、三反田さんたんだ川が流れる。「弓田」と記すものもあり(日本九峰修行日記)、俗にユムタともいう。上井牟田・下井牟田からなり、下井牟田は上井牟田から分れたと伝える。上井牟田は北を蓮華石れんげいし岳・獅子喰ししくら岳、東をほしヶ原高地などに囲まれ、地勢は盆地状をなし、田地を囲んで横山よこやま川口こうぐち中野屋敷なかのやしき松葉まつば古賀こがなどの集落がある。文永元年(一二六四)五月一〇日の関東下知状案(宗像神社文書)に「井牟田半分」「柏原・横山口跡」とみえ、伊佐早いさはや永野ながの(現諫早市)地頭職をめぐる宗像氏業と宗像(永野)氏郷兄弟の相論で、当地も下地中分の対象となっている。観応三年(一三五二)足利直冬が高来たかく郡に攻め入り、井牟田を焼払ったという(北肥戦誌)

江戸時代は諫早いさはや郷に属し、肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。慶長国絵図に「宇木ノ内 井牟田」とあり、正保国絵図では井牟多村として高三〇〇石余。

井牟田村
いむたむら

[現在地名]津久見市井無田町いむたまち下青江しもあおえ 井牟田

門前もんぜ村の東、青江川の下流右岸に位置し、南は西野内にしのうち村、北・東は警固屋けごや村。井無田村とも記す(正保郷帳など)。江戸時代は初め臼杵藩領であったが、佐伯藩領であった警固屋村を臼杵藩領とした代りに、鬼丸おにまる村の一部や奥河内おくがわち村とともに慶長六年(一六〇一)佐伯藩領になったという(延享二年「奥河内山林之儀取遣一件」佐伯藩政史料)。同藩領津久見浦組を構成する一村であった。正保郷帳では津久見郷に属し、田方二七石余・畑方一七石余、水損所・日損所。元禄一三年(一七〇〇)の国東速見大分海部郡郷帳違目録(臼杵藩政史料)には「津久見村之内井牟田村」とあり、当無高。

井牟田村
いむたむら

[現在地名]田浦町井牟田

東は船津ふなつ村・赤松あかまつ村・大平おおひら村・小藪こやぶ(現八代市)、西は波多島はたと村に接し、北西部は八代海に面する山村で、海岸部にわずかな集落がある。寛永郷帳に名がみえず、元禄国絵図には二見ふたみ(現八代市)のうち井牟田村とあり、「肥集録」には下大野しもおおの(現八代市)小村と記される。

井牟田村
いむたむら

[現在地名]清和村井無田いむた

西は鶴底つるそこ村と接し、広戸ひろと川の最上流の村である。慶長国絵図に「伊無田村」とみえる。矢部手永に属し、「国誌」によると飯蓋村・鬼山村・谷頭村・清畠村・窒村などの小村があった。文政九年(一八二六)矢部手永略手鑑では「井無田村」と記し、高一八六石二斗余、田畝五町三反六畝・畑畝六町六反二畝余・苅畑一反余、竈数二八、男七三・女七二、牛六六・馬六一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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