津久見村(読み)つくみむら

日本歴史地名大系 「津久見村」の解説

津久見村
つくみむら

[現在地名]津久見市中田町なかだまち立花町たちばなまち上宮本町かみみやもとまち宮本町みやもとまち大友町おおともまち文京町ぶんきようまち岩屋町いわやまち高州町たかすまち中央町ちゆうおうまちなど

およそ青江あおえ川の右岸域から津久見川流域の山間部と四浦ようら半島基部までの津久見湾岸一帯に位置し、北は警固屋けごや村など、南ははと浦など。建長二年(一二五〇)三月一六日の臼杵庄地頭代官僧西印・公文僧連署奉書(解脱寺文書)に「津久見浦」とみえる。臼杵うすき庄に属し、鎌倉時代末期には北条家得宗領であったと思われるが、南北朝期以降は大友氏の所領となった。天正一八年(一五九〇)一〇月二日の薬師寺兵庫助領田畠注文(薬師寺文書)などに「津久見村」とみえるが、当時は現津久見市域の大半を含んだものと思われる。

慶長六年(一六〇一)佐伯藩領となる。同九年初代藩主毛利高政は「津久美庄屋」の又右衛門に居屋敷方一石分の年貢永代免除している(「毛利高政扶持宛行状」西郷家文書)。高政は同一一年にも津久見村に宛て耕作専念を命じた五ヵ条の掟書を発し(同文書)、同時に百姓の在所・屋敷付近の竹木伐採を禁ずる二ヵ条の掟書も発している(温故知新録)。同一四年には当村六右衛門を津久見惣中政所に任じ、上田一反・高一石を屋敷地として与えている(「毛利高政扶持宛行状」・「毛利高政宥免状写」西郷家文書)。同年当村の喜兵衛にも居屋敷一反余・高一石余を、また善内にも同じく九畝・九斗を永代扶持している(「毛利高政扶持宛行状」温故知新録など)。同一〇年の検地目録帳(佐伯藩政史料)によれば高一千四八五石余、反別田方六五町一反余・畑方九二町一反余、免二ツ一分。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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