井岡村(読み)いのおかむら

日本歴史地名大系 「井岡村」の解説

井岡村
いのおかむら

[現在地名]刈羽村井岡

大塚おおつか村の北。東は大坪おおつぼ村、北は五日市いつかいち(以上現西山町)十日市とおかいち村、西は別山べつやま川対岸の刈羽村。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に高三三六石四斗余とある。正保国絵図では高田藩領で、高三〇四石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高二八二石一斗余のほか高一二石五斗余の新田がある。「白川風土記」では家数五四。南に大溜おおだめ(大池)十六反溜じゆうろくたんだめの池があり、用水に利用。幕末には桑名藩領。地内に真宗大谷派の箕輪願浄がんじよう寺がある。

井岡村
いおかむら

[現在地名]小山市井岡

巴波うずま川左岸の平地にあり、北は小袋こぶくろ村。年未詳八月三日の足利晴氏書状(小山文書)に「飯岡之郷」とみえ、古河公方の料所であった。喜連川家料所記(喜連川文書)によれば「井岡郷」は寒川さむかわ郷・かがみ郷などとともに永禄三年(一五六〇)まで古河公方の料所であったが、のちに小山氏によって押領された。寒川郡に属し、文禄四年(一五九五)の榎本領二十四村惣高覚(大出善作文書)に高三五一石余とある。

井岡村
いおかむら

[現在地名]西会津町奥川元島おくがわもとしま

吉田よしだ新田村の北にあり、耶麻郡吉田組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には「伊与か村」とみえ、高六四石余。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」では高三一石余、免二ツ四分、反別は田方一町余・畑方三町七反余、家数四(竈数五)、男一二・女五。綿役銀四匁九厘・山役銀一匁七分六厘・役漆木二七一本などを負担していた。貞享五年(一六八八)の村鑑(矢部家文書)では高五〇石余、家数六、男一四・女一四。

井岡村
いのおかむら

[現在地名]鶴岡市井岡

山屋やまや村の北東にあり、和田岡わだおか丘陵を囲んで集落がある。小国おぐに街道が北東から南西へ通る。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高九五七石余、新田五石余。同年の庄内寺社領目録によれば、ほかに観音領一四二石余・新山しんざん領一〇石余がある。寛永三年庄内高辻帳では高五九四石余。正保郷帳では田九〇九石余・畑四〇石余、社領一五二石余、柴山があり水損。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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