五日市場(読み)いつかいちば

日本歴史地名大系 「五日市場」の解説

五日市場
いつかいちば

中条氏の居城である金谷かなや城跡付近と推定される。高橋たかはし庄内には五日市庭(場)という地名があり、毎月五の日に三回開市されたのであろう。

観応元年(一三五〇)祭礼下行帳(猿投神社文書)には祭礼の折敷・酒瓶子・かわらけなどを購入した際の支出が記され、中条氏や被官衆・猿投さなげ神社の必需品を賄う場として発展した。貞治三年(一三六四)の上葺勧進帳断簡(同文書)に「一貫文 重、五日市庭」とあり、猿投神社の本殿上葺の与力として五日市庭からの浄財があったことを示す。

五日市場
いつかいちば

鎌倉期よりみえる市場名で、七北田ななきた川沿いの今市いまいちから中野の宿在家なかののしゆくざいけ辺りと比定されるが確証はない。元亨四年(一三二四)六月一九日の留守家明譲状(留守文書)河原かわら宿五日市場とあり、同宿に立てられた市場と考えられ、冠屋かぶりや市場と同じく留守氏領内であった。弘安八年(一二八五)四月二七日当市場の大池小三郎の在家一宇など在家五宇が留守氏三代家広よりその子家政(のち改め余目氏)に譲られ(「留守家広譲状」同文書)、正安二年(一三〇〇)五月二一日には家政より孫の亀弥丸と亀弥丸分を除いた在家は嫡孫の家明に分割譲与され(各「留守家政譲状」同文書)、前述元亨四年には家明より嫡子家任に譲渡されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報