亀津村(読み)かむいじむら

日本歴史地名大系 「亀津村」の解説

亀津村
かむいじむら

[現在地名]徳之島亀津かめつ

現徳之島町の南部に位置し、集落は海に臨む。大瀬おおせ川が流れる。地内に上里塔・山城・大城跨などの地名がある。南西方の南原みなみばらも当村内で、やはり海に面する。しぎや間切亀津のうち。琉球渡海日々記(旧記雑録)によれば、慶長一四年(一六〇九)三月の島津氏の進攻に際して、副将の肝付兼篤らを乗せた船は三月二一日に秋徳あきちゆを出帆したが向い風で戻され、「亀津」に入津している。そこは「ひらの役人の居所」で「人居過分」であったというが、亀津の役人が逃隠れたので山狩が行われている。この軍勢に対して秋徳の掟兄弟が棒を尖らしたり、竹に包丁や山刀を括り付けて敵を打殺せと指示しているほか、粟粥をたぎらして坂や道に流して火傷を負わせるよう命じている。焼畑の灰の中から芽を吹出す粟の、穀霊による悪霊祓の呪術が信仰されていたものであろう。

正保琉球国絵図に「東間切之内かめつ村」とみえ、沿岸に諸村を結ぶ道が記されるほか、海岸部に「たつ口」「かくちな崎」「くらひの崎」がみえる。

亀津村
かめどむら

下総国葛西かさい御厨に含まれる中世の村。現在の墨田区立花たちばな一丁目、江東区亀戸かめいど三―四丁目・同八―九丁目辺に相当する。地形的には古隅田川(古利根川下流)中川(古葛西川)河口に位置しているため、いわゆる浮洲(砂洲)から発達した土地と思われる。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「亀津村」とみえ、公田が一四町と記載される。また、年未詳ながらも本土寺過去帳に一月に城教座頭が「カサイ亀渡」で死去したとみえ(一六日条)、永禄六年(一五六三)一二月二九日には、江戸北条虎松丸(のちの氏秀)が「亀戸之内小村江備前守分」を小曾川小五郎に与えている(「北条虎松丸朱印状写」武州文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報