亀川村(読み)かめがわむら

日本歴史地名大系 「亀川村」の解説

亀川村
かめがわむら

[現在地名]別府市亀川四の湯町かめがわしのゆまち亀川中央町かめがわちゆうおうまち亀川東町かめがわひがしまち亀川四かめがわし湯町二区ゆまちにく

平田ひらた村の北に位置し、南北に豊前道(鹿鳴越)が通る。東は別府湾に面し、村域の多くが海岸砂丘上に展開する。漁村として開けた村で、また古くから温泉の湧出する地として知られた。慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)竈門かまど庄に属する亀川がみえ、「内かまと」と一括して高付されている。高は九七三石余。当時は細川忠興領で、以後の領主変遷は野田村に同じ。「豊後国志」は竈門庄に属する村として内竈門うちかまど小坂おさか古市ふるいち里屋さとやおよび小浦こうら(現日出町)の五ヵ村をあげ、里屋は古くは亀川というと記す。

亀川村
かめがわむら

[現在地名]本渡市亀場かめば町亀川

町山口まちやまぐち村の南に位置し、東の本渡ノ瀬戸を隔てかみ島の志柿しかき村に相対する亀川下流域の村。元徳元年(一三二九)一〇月日の志岐弘円代覚心重申状案(志岐文書)に「亀河」とみえ、本砥ほんど島の開発領主天草種有の子播磨局は父の菩提を弔うために当村の新開地に来迎らいごう寺を建立し、村内の土地を寺領として寄進した。その後、天草妙性の継子志岐景弘(弘円)宮地みやじ(現天草郡新和町)地頭仏意との間に亀河の田畠山河などをめぐる相論が発生。来迎寺へ寄進された土地であることを理由に地頭が未補任であった間隙をぬって、弘円が横領を働いたというのが相論の原因であった(同二年三月日「宮地村地頭仏意重陳状案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報