亀崎村(読み)かめざきむら

日本歴史地名大系 「亀崎村」の解説

亀崎村
かめざきむら

[現在地名]半田市亀崎〈相生あいおい町・大洞おおぼら町・北浦きたうら町・新田しんでん町・高根たかね町・月見つきみ町・常盤ときわ町〉・亀崎町・州の崎すのさき町・阿原あはら

北側で有脇ありわき村に接するが、北から東南にかけて海に面し、西は乙川おつかわ村に接する。海沿いの急斜面に集落を形成する漁村であり港町の様相を示している。戦国期、緒川おがわ(現知多郡東浦町)城主水野氏が稲生政勝に守らせたという亀崎城が造られたが慶長六年(一六〇一)廃城となった。

慶長一三年の備前検の検地帳のうち二冊と、明暦二年(一六五六)の本田帳三冊(立教大学蔵)がある。「寛文覚書」によると概高四一一石余、田一一町七反余・畑一七町五反余、新田元高四二石余と概し後の寛文四年(一六六四)の新田一四二石余で、初期の開発が著しい。家数は二五〇、人数一千九九七。廻船一艘で運上銀を納め、小船五艘は「舟役御用之時、水主人足出」とあり、小舟五艘は「師崎より江戸へ七里御飛脚勤三州高浜渡海仕、無役」とある。

亀崎村
かめざきむら

[現在地名]四街道市亀崎・千代田ちよだ二―四丁目など

物井ものい村の北、羽鳥はどり(現佐倉市)の南に位置。集落は鹿島かしま川左岸台地上にあり、佐倉道が通る。東方の鹿島川谷にある水田は、増水時や印旛いんば沼の逆流(日光水とよんだ)によってしばしば水害を受けた。寛永二年(一六二五)知行宛行状印旛郡として村名がみえ、当村の三〇〇石が旗本榊原領となっている。

亀崎村
かめざきむら

[現在地名]大牟田市宮崎みやざき

くま村の東、隈川の右岸に位置し、北は楠田くすだ(現高田町)、南は原内山はるうちやま村。文明―明応(一四六九―一五〇一)頃の一〇月一七日付田原親宗発給の田尻氏知行坪付(田尻家文書/佐賀県史料集成七)に「亀崎」のうち四五町とみえ、「此前豊州へ御判之事申遣候、到来候者、則可相遣候」とあり、大友氏の安堵を受けた知行地であった。しかし年月日欠の田尻氏所領不知行分坪付(同上)のなかに亀崎四五町が含まれており、天文一九年(一五五〇)頃と推定される年月日欠の三池氏等知行坪付(同上)では「かミさき」四五町は三池殿持分とされている。

亀崎村
かめざきむら

[現在地名]八日市場市亀崎

田久保たくぼ村の西に位置する。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属したとみられ、在地領主として上総氏系の匝瑳氏が知られる。神代本千葉系図は上総介常澄の孫にあたる匝瑳助常の子息に亀崎明範(法号了泉)を載せ、五郎重胤・太郎胤継・孫六常義と継いでいる。また明範の弟に坂井太郎成高を載せ、匝瑳氏の支流が武射むしやさかい(現芝山町)にも勢力を伸ばしていたと推測される。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に「三谷孫六殿分 亀崎 田数一町七反廿五歩」とみえ、四二七文が香取社の造営料として納められている。御堂みどうに残る亀崎館跡は三谷氏の屋敷跡と伝えられ、台地上に土塁で囲まれた単郭方形の遺構が残る。

亀崎村
かめざきむら

[現在地名]長岡市亀崎町

長岡町の北東の方向二里近くを隔て、東山丘陵の西麓にある。山麓沿いに見附往来がほぼ南北に走り、南は桂沢かつらざわ村、北は椿沢つばきざわ(現見附市)に接する。西方は低湿地の八町はつちよう沼が広がっていた。文明(一四六九―八七)頃の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に、長尾弾正左衛門尉(能景)分の下条高波げじようたかなみ保のなかに被官本間左衛門五郎が「亀崎」に、本田・増分と文明一九年再検地増分合計一万六千九八〇苅の給地を得ている。また寺社不断所分(寺社不断経所料のことか)として「亀崎・田井」の本田・増分・再検地増分合計一千八一〇束苅が記される。一方、飯沼弾正左衛門尉分の高波保のなかにも中条修理亮が「亀崎」に合計六千一一〇束苅を有し、弾正左衛門尉も地内藤五森とうごのもりに所領をもつ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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