九条村(読み)くじようむら

日本歴史地名大系 「九条村」の解説

九条村
くじようむら

[現在地名]西区本田ほんでん一―四丁目・九条一―三丁目・千代崎ちよざき二丁目・九条南くじようみなみ一―四丁目・境川さかいがわ一―二丁目、此花このはな西九条にしくじよう一―七丁目

淀川水系河口に形成された三角洲の一つ九条島にある村で、西成にしなり郡に属し、もとは九条島くじようじま村とも称した。九条島は大坂三郷の西に位置し、東は木津きづ川・尻無しりなし川を隔てて江之子えのこ島・てら島、北は淀川を隔てて野田のだ(現福島区)、西は六軒屋ろつけんや川を隔てて四貫しかん(現此花区)に面し、西の海岸部は後に市岡いちおか新田(現港区)となる砂洲で、島の北端部は川口かわぐちとよばれ、幕府の船番所と船手奉行や与力の屋敷が置かれていた。九条村はその南にあり、慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図に「九条島之内」と記されるので、すでに若干の田地が開かれていたと考えられる。同一九年の大坂冬の陣には大坂方の防衛線の一部となっていたが(大阪市史)、本格的に開発がなされ、村が成立したのは寛永年間(一六二四―四四)である。「蘆分船」「摂津名所図会」によれば、同元年幕吏高西夕雲(香西雲)が土豪池山新兵衛一吉(如心)を起用して四貫島と九条島を開発し、そののち池山氏は代々九条村庄屋を勤めたとされる。「西成郡史」では、同年米屋弥右衛門ら一二名が新田を開いて弥右衛門が名主となり、同四年三月に夕雲の検地を受けたとし、検地帳も残っていたと記す。

九条村
くじようむら

[現在地名]大和郡山市九条町・九条平野くじようひらの

東南流してきた富雄とみお川がやや西南に流れを変える辺りの東方、また秋篠あきしの川西方に所在。元和郷帳には「九条西市」ともみえる。慶長郷帳にみる村高は一〇〇六・〇八石で幕府領(代官大久保長安)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり廃藩置県に至った。

文禄年間(一五九二―九六)郡山城主増田長盛が郡山城の外堀をつくるため秋篠川の流路を東に変更した。この結果旧河道に石高一四・七一七石の土地が生じた。慶長郷帳では「九条同所庄川」(幕府領、代官大久保長安)、元和郷帳では「添下郡日古河跡」(郡山藩水野勝成)とみえるが、寛永郷帳ではこの高を九条村に合わせている。すなわち「一千二拾石七斗九升七合 本多内記 九条村 内十四石七斗一升七合 古川跡ニ高入」と記されている。

九条村
くじようむら

[現在地名]天理市九条町

布留ふる川流域、永原ながはら村西方に所在。「多聞院日記」天正二年(一五七四)二月一二日条に「昨夜十常(十市常陸介)ヨリ九条ノ城ヘ取寄リ、則一城悉打果了、人数卅計殺害了云々」とある。

慶長郷帳の村高八八六・八九六石。慶長八年(一六〇三)相給村となり、二四〇・三二石は近世を通じて旗本森氏(可澄系)領で、のちに九条村から分れて筑紫つくし村となる。残り六四六・五七六石は幕府領。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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