丹生郷(読み)にゆうごう

日本歴史地名大系 「丹生郷」の解説

丹生郷
にゆうごう

和名抄」道円本・高山寺本・東急本ともに丹生とあり、訓はないが、越前国丹生郡について「爾不」の訓を付す。「豊後国風土記」に「丹生の郷 郡の西にあり 昔時の人、この山の沙をとりて朱沙に該てき。因りて丹生の郷という」とあり、丹が取れたことが地名の由来である。「続日本紀」には文武天皇二年(六九八)九月に豊後国から真朱が献上されたことが記されている(同月二八日条)

丹生郷
にうごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「丹生」と記し、東急本は「尓布」と訓ずる。「土佐幽考」は「今号入河内是也、入者丹生也、在丹生河内之意也、此河蓋丹生郷河也」とし、「日本地理志料」は「按図有大井古井・島・赤土・伊尾木ノ諸邑、其縁海称丹生浦、即其地也」とする。これは現在の安芸市東部、伊尾木いおき川流域にあたる。

丹生郷
にゆうごう

「和名抄」高山寺本は「迩布」、東急本は「尓布」の訓を付す。高山寺本には「出水銀」と注記され水銀の産出に由来する郷名。「続日本紀」文武天皇二年九月二八日条に「伊勢国朱沙雄黄」、和銅六年(七一三)五月一一日条に「伊勢水銀」とある朱砂水銀は当郷より出たものと思われる。「延喜式」神名帳には「丹生ニフノ神社」「丹生中ニフノナカノ神社」がみえる。天暦七年(九五三)二月一一日の伊勢国近長谷寺資財帳(近長谷寺蔵)の「寺山四至」には「限南丹生堺阿幾呂、限西丹生中山」とあり、当郷に隣接して近長谷きんちようこく(現多気郡多気町)領があった。

丹生郷
にうごう

「和名抄」高山寺本は「迩布」、東急本は「尓布」と訓ずる。ただし、同本には同名郷が重出。天平勝宝五年(七五三)のものとされる正倉院丹裏古文書に「若狭国遠敷郡丹生郷」、平城宮出土木簡に「□敷郡丹生里人夫膳臣□御調三斗」とみえ、大治元年(一一二六)二月日付源某所領処分状(東寺百合文書)に「丹生村」が記される。「三代実録」貞観一二年(八七〇)一二月八日条にみえる丹生弘吉は当郷にかかわるか。

丹生郷
にうごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。現富岡市上丹生かみにゆう・下丹生を遺名とする。「三代実録」貞観一七年(八七五)一二月五日条に「授(中略)上野国正六位上丹生明神並従五位下」、「上野国神名帳」に「従三位丹生明神」と記される丹生明神は、下丹生の丹生神社とみられる。「平家物語」巻一一の壇ノ浦合戦にみえる上野住人「仁宇ノ四郎」は、この地に台頭した武士であろうか。

丹生郷
にうごう

「和名抄」高山寺本は「邇布」と訓ずる。天平三年(七三一)二月二六日付越前国正税帳(正倉院文書)に丹生郡郡司主帳无位丹生直伊可豆智と人名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報