丸亀城跡(読み)まるがめじようあと

日本歴史地名大系 「丸亀城跡」の解説

丸亀城跡
まるがめじようあと

[現在地名]丸亀市一番丁

城下の南にあるかめ山に築かれた平山城。初め生駒氏、のち丸亀藩主山崎氏・京極氏の居城。亀山かめやま城・蓬莱ほうらい城ともよばれる。国指定史跡。応仁年間(一四六七―六九)には鵜足うた那珂なか両郡を得た細川氏の武将で、聖通寺しようつうじ(現綾歌郡宇多津町)の城主奈良元安の支城があったとされる(南海通記)

天正一五年(一五八七)豊臣秀吉から讃岐一五万石を封ぜられた生駒親正は、高松城の支城を丸亀に築き子の一正の居城とした。築城は慶長二年(一五九七)開始され、同七年頃完成(生駒記・西讃府志)、同年亀山の北にあった山北やまのきた八幡宮が那珂郡柞原くばら郷に移された。「西讃府志」には「亀山ノ城ヲ築キ玉フ時神異アリ」とある。関ヶ原の戦後は徳川家康方についた一正が藩主となって高松へ移ったため、城代時代が続いた。元和元年(一六一五)の一国一城令により廃城、堀が埋められ城は取壊された。讃岐国丸亀之城図・讃岐丸亀城以中図宿之(尊経閣文庫蔵)などによれば、内堀・外堀・山上全体の規模は現在の状態とあまり変わらない。形態は平面では高松城に似ており、同城の中心の本丸・二の丸を山上にあげ、その下に曲輪を設ける形で築造されたと考えられる。山上に本丸・二の丸・三の丸・巽曲輪・乾曲輪などが配され、大手門は南にあり、その北西山上に枡形門がみえる。東西二〇間・南北三〇間の本丸に高さ二間の天守台があった。廃城の際の破壊はかなり徹底して行われたらしく、生駒氏時代の遺構はほとんど残っていない。ただし、二の丸の井戸や石垣の一部の野面積みを遺構とする説がある。

寛永一七年(一六四〇)生駒騒動による生駒氏転封後、讃岐は伊予の三藩主が分割して預かり治めた。同一八年西讃岐は山崎家治が五万六七石余で丸亀に入封する。三野みの豊田とよた多度たどの三郡、那珂郡のうち二二ヵ村、鵜足郡土居どい村・三浦を領有した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「丸亀城跡」の解説

まるがめじょうあと【丸亀城跡】


香川県丸亀市一番丁にある城跡。別名、亀山城。丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66m)に所在し、亀山のまわりをほぼ四角形の堀(内堀)で囲む。山麓から山頂まで4重に重ねられた石垣は総高60mと日本一高く、山頂の本丸に建てられた高さ15mの御三階櫓(やぐら)(天守)が現存する。本丸の東に少し低く二の丸を配し、さらに一段低い三の丸を山腹にめぐらせている。内堀の周囲には侍屋敷が建ち並び、その外側を外堀が方形に取り囲み、南正面に大手門がある。天守、大手一の門、大手二の門は国の重要文化財であり、城跡は1953年(昭和28)に国の史跡に指定された。室町時代に聖通寺(しょうつうじ)城主、奈良元安が亀山に砦(とりで)を構えたと伝えられ、その後、1587年(天正15)に生駒親正(いこまちかまさ)が讃岐17万石を与えられて高松城を本城とし、その後、亀山に支城を築いた。1602年(慶長7)、6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成。1640年(寛永17)、生駒氏がお家騒動(生駒騒動)のため出羽国由利郡矢島に転封となり、翌年、大坂城の石垣構築にも携わり築城の名手とされた山崎家治が入封、新城の造営を計画して城下町の整備を行い、今日の丸亀の基礎を築いた。山崎氏が3代で断絶した後、1658年(万治1)に入封した京極高和が、その2年後にようやく天守を完成させた。それ以後、明治維新まで京極氏の居城となった。1673年(延宝1)には山崎家治以来の城の大改修が終わったが、現存する石垣の大半はこのときのものである。JR予讃線丸亀駅から徒歩約17分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報