中興保(読み)なかおきほ

日本歴史地名大系 「中興保」の解説

中興保
なかおきほ

中奥なかおく町を遺称地とし、同地から石川郡野々市ののいち堀内ほりうち町にいたる地域に比定される。永仁四年(一二九六)一二月、加賀国中隠岐藤原家綱が阿弥陀仏を鋳進した(「下野国称念寺鉦鈷銘拓本」東京国立博物館蔵)。正中二年(一三二五)四月四日、白山本宮臨時祭礼における競馬神人の進退について本宮と金剣きんけん(現鶴来町)の間で武力衝突が起こり、金剣宮側にくみした中興保一分地頭光明寺三郎らが殺害された(白山宮荘厳講中記録)。応永二一年(一四一四)四月一九日、足利義持は倉光藤増丸に中興保の田地三町二段ほかを相伝知行に任せて安堵しているが(「足利義持御判御教書」金沢市中文書)、長禄四年(一四六〇)閏九月一一日、幕府は中興保などについて京都清水きよみず坂神護寺の直務を認めている(「幕府奉行人奉書」伺事記録紙背文書)


中興保
なかおくほ

現中興に所在した保。応永一四年(一四〇七)七月二日付の本間氏と推定される左衛門尉詮忠譲状(山田本間文書)に「中興保捌分壱」、永享九年(一四三七)三月六日本間源厚譲状(同文書)に「中興保八分壱」とみえ、それぞれ本間有泰、本間淳泰に譲るとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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