中村時万(読み)なかむら・ときかず

朝日日本歴史人物事典 「中村時万」の解説

中村時万

生年生没年不詳
幕末の幕府官僚。天保7(1836)年家督相続。嘉永4(1851)年勘定組頭,同6年筒井政憲,川路聖謨に随行して長崎に赴き,ロシア使節プチャーチンとの交渉に参加。安政2(1855)年5月勘定吟味役,次いで外国貿易取調掛を兼任。同4年4月下田奉行となりハリスとの交渉に当たったが,次第に外交の第一線を退く。万延1(1860)年閏3月普請奉行,文久2(1862)年6月同職の廃止に伴い解職。当時年50代であった。元治1(1864)年5月佐渡奉行,翌慶応1(1865)年10月辞職。以降の経歴未詳

(井上勲)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中村時万」の解説

中村時万 なかむら-ときかず

?-1881 幕末の武士
幕臣。勘定組頭(くみがしら)。嘉永(かえい)6年全権筒井政憲(まさのり),川路聖謨(としあきら)にしたがい長崎でロシア使節プチャーチンとの交渉にくわわる。安政4年最後の下田奉行となりハリスやエルギンらと交渉。のち普請奉行,佐渡奉行をつとめた。明治14年10月24日死去。通称は為弥。号は永錫。

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