中山艦事件(読み)ちゅうざんかんじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中山艦事件」の意味・わかりやすい解説

中山艦事件
ちゅうざんかんじけん

第一次国共合作下の1926年3月20日、国民党の蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が、共産党を攻撃した事件。三・二〇事件ともいう。1924年に発足した第一次国共合作は、国民党右派による反共勢力画策のため、分裂の危機をはらんでおり、また共産党の指導部にいた陳独秀(ちんどくしゅう/チェントゥーシウ)らは右翼日和見(ひよりみ)主義にたち、断固とした闘争を行わなかった。国民党右派勢力をひそかに背後にもつ蒋介石は、共産党員である中山艦の艦長李之竜に広州から広州郊外の黄埔(こうほ)への移動を命じておきながら、無断で軍艦を動かしたとして、李之竜以下共産党員を逮捕し、広州の重要拠点を占拠し、反共クーデターを起こした。

 これは最初の反共挑発であったが、国民党主席の汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン)が蒋介石に抗議して外遊するという形で終わり、適切な解決はされなかった。この事件以後、軍事権をバックに蒋介石と国民党右派が実権を掌握した。

安藤彦太郎

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「中山艦事件」の解説

中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)

1926年広州で起こった蒋介石(しょうかいせき)の反共陰謀事件。25年孫文死後国民党右派は共産党,国民党左派に対し反撃の機会をねらっていた。26年3月軍艦中山艦(艦長李之竜(りしりゅう)は共産党員)は陰謀計画鎮圧のため黄埔(こうほ)へ回航せよという命令を受けて黄埔へ入港した。しかし逆に共産党が暴動を企てたという理由で,蒋介石はクーデタを決行,広州全市に戒厳令を施行,重要地点を占拠し黄埔軍官学校から共産党員を追放した。ついで5月蒋介石は2中全会に,共産党員が国民党内で重要役職につくことを禁止する「党務整理案」を提出,可決させた。これを機会に蒋介石を中心とする右派の勢力が伸張した。

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改訂新版 世界大百科事典 「中山艦事件」の意味・わかりやすい解説

中山艦事件 (ちゅうざんかんじけん)
Zhōng shān jiàn shì jiàn

国民革命過程中国国民党右派台頭の契機となった事件。1926年3月20日に国民革命軍軍艦中山号が命令外の行動をとったとして,軍総司令官蔣介石は共産党員でもあった同号艦長李之竜以下を逮捕・尋問した。事件自体の真相は謎が多いが,これを機に共産党系党員への圧迫が始まり,また蔣介石が革命政府の軍・政の実権を掌握するなど,それまでの左派優位の党内で右派の力が強くなっていった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中山艦事件」の意味・わかりやすい解説

中山艦事件
ちゅうざんかんじけん

1926年3月 20日に中国の広東政府内で蒋介石を中心とする国民党右派によって起された共産党弾圧事件。海軍局長代理で中山艦艦長であった李之龍 (共産党員) は蒋介石の命令と称する電話に接し,中山艦を黄埔に回航すると,蒋介石は「共産党派の反蒋クーデター計画」を察知したとして,李ほか 50名余を逮捕し,中山艦をはじめ,省港罷工委員会,広東製弾廠,ソ連人顧問弁事処などを占拠し,広州全市に戒厳令をしいた。続いて蒋介石は黄埔軍官学校,国民革命第1軍から共産党員およびこれに近い人々を追放し,蒋介石と右派の勢力が強化されていった。

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百科事典マイペディア 「中山艦事件」の意味・わかりやすい解説

中山艦事件【ちゅうざんかんじけん】

中国の反共陰謀事件。1926年3月20日,蒋介石の命令に従って国民革命軍の軍艦中山号(艦長李之竜,共産党員)が広州の外港黄埔(こうほ)に入港するや,共産党は政府転覆の意図ありとする流言が流され,蒋はこれを機に,黄埔の共産党拠点を襲い,50余名の共産党員を逮捕,軍官学校,国民革命軍から共産党員を駆逐し,右派勢力を強めた。

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