蔣介石(読み)しょうかいせき(英語表記)Jiǎng Jiè shí

改訂新版 世界大百科事典 「蔣介石」の意味・わかりやすい解説

蔣介石 (しょうかいせき)
Jiǎng Jiè shí
生没年:1887-1975

中国の政治家。孫文死後国民党右派)の最高指導者。1928年から49年までの時期の中華民国独裁的支配者であり,中華人民共和国成立後,台湾本拠を置く亡命政権の指導者としてその生涯を送った。蔣経国実父。字は中正。原名瑞元。学名志清。浙江省奉化県の人。商人の出身。1907年(光緒33)保定振武学校(軍官学校)を卒業後,日本の陸軍士官学校に留学,同年,陳其美の紹介で中国同盟会に加入した。11年,武昌蜂起を知って帰国し,上海の滬軍都督陳其美のもとで活躍した。江西省・浙江省における権力の独占をねらう陳其美の命を受けて,12年初め光復会の革命家陶成章を暗殺し,さらに陳其美について第二,第三革命に参加した。その後,上海の証券取引所の仲買人となるが,この時期に,虞洽卿(ぐこうけい),銭永銘,宋子文,陳果夫,陳立夫,杜月笙等と知り合い,のちの〈四大家族〉の形成,その浙江財閥との結合の基礎をつくったといわれる。24年,孫文の三大政策(連ソ・容共・労農扶助)支持を表明して孫文の信任を得,モスクワに派遣されて軍事を学んだ。帰国後,孫文の広東新政府の下で黄埔軍官学校校長,国民革命軍第1軍軍長となり,軍の実権を握り,25年孫文の死後,一時左派と組んで国民党内の地位を高めた。26年3月,中山艦事件をみずからひきおこして共産党の活動を制限し,国民党中央執行委主席,同組織部長,国民革命軍総司令等の要職を手に入れた。26年7月北伐令を発し,反軍閥戦争のために北上国民革命),27年4月12日,上海で北伐に呼応して蜂起した共産党員と労働者に突如攻撃をかけ(四・一二クーデタ),国共合作を破壊した。以後全国で反共テロを行い,10年に及ぶ国共内戦の発端をつくった。同年末,孫文夫人宋慶齢の妹宋美齢と結婚,胡漢民汪精衛を抑えて孫文の〈後継者〉の地位を固めようとした。

 28年南京国民政府成立後,国民政府軍事委員長,中央政治会議主席となり,軍事・政治の大権を握って独裁をすすめるが,29-30年,これに反発する各地の軍閥の反蔣戦争が起こった。蔣介石はこれを鎮圧したのち,共産党の指導する革命根拠地への大規模な包囲攻撃を開始し,31年日本帝国主義の東北侵略に対しても対日不抵抗・内戦政策を続行し,抗日と民主を主張する知識人,青年,労働者への弾圧を強めた。このころ,蔣介石を中心とする〈四大家族〉は,アメリカ帝国主義との結合を強めつつ,独裁的権力を利用して官僚独占資本をしだいに形成した。36年,西安事件によって内戦停止・抗日を余儀なくされ,37年国共合作による抗日戦争が始まるが,38年武漢失守後は重慶を本拠にみずからの勢力の温存をはかり,消極抗日・積極反共に再び転じた。45年抗戦勝利後,アメリカの援助を受けて独裁支配を復活しようとし,内戦を発動し,48年憲法を制定して中華民国総統となった。この年人民解放軍の総反攻が始まり,翌49年中華人民共和国の成立とともに,台北に逃れた。その後も国民党総裁,中華民国総統を名のり,台湾の軍事的・経済的強化発展をはかりつつ,〈大陸反攻〉の野望を抱きつづけた。
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旺文社世界史事典 三訂版 「蔣介石」の解説

蔣介石
しょうかいせき
Jiǎng Jiè-Shí

1887〜1975
中国の政治家・軍人
字は中正。浙江 (せつこう) 省の塩商の子。1908年日本の陸軍士官学校に入学。留学当初,孫文の中国同盟会に加入し,帰国して1911年の辛亥革命に参加,23年孫文の知遇を受けて24年には黄埔軍官学校長となった。孫文の死後,中国国民党の実権を握り,1926年国民革命軍総司令として北伐を進めた。翌年上海クーデタを起こして反共を宣言し,南京国民政府を樹立,28年には宋美齢と結婚し,孫文の後継者となった。1928年北京を陥落させて北伐を完成。アメリカ・イギリスに接近し,浙江財閥を背景に国民政府主席となり,以後10年にわたり反共独裁の立場にたち,広西討伐・福建革命政府攻撃など内戦を続けた。1931年の満州事変当時には江西・福建のソヴィエト区を攻囲し,34年には共産勢力を延安に追った。1936年の西安事件を契機に国共合作を受諾。日中戦争が始まると抗日民族統一戦線を指導し,第二次世界大戦中は連合国側の一員となった。戦後共産党と対立,1948年中華民国総統となったが,翌年国共内戦に敗れて本土を追われ,以後台湾で国民政府を統率し,特例として事実上の終身総統となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「蔣介石」の解説

蔣介石
しょうかいせき

1887〜1975
台湾(中華民国)の軍人・政治家。中国国民政府総統
浙江省出身。日本陸軍士官学校卒。辛亥革命で活躍し,孫文死後右派の立場で国民党を指導。1926年国民革命軍総司令として北伐を進め,'27年の4・12クーデタ後,南京に国民政府を樹立した。その際共産党を弾圧。日本の中国進出が進むと,西安事件('36)を機に,国共合作による抗日にふみきり,日中戦争にあたる。抗日戦後,中国共産党との内戦に敗れ,'49年に台湾に退き,国民政府を維持した。

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世界大百科事典(旧版)内の蔣介石の言及

【軍閥】より

…北京の政権は,日本の手先の安徽派がまずにぎり,ついで英米のおす直隷派にかわり,さらに安徽派から分化した張作霖の奉天派にうつるが,1928年,国民革命軍の北伐が勝利して北洋軍閥支配は終焉した。同年末の張学良の〈易幟(えきし)〉によって蔣介石による全国統一が完成するが,それは国民党の新軍閥化とむすびついていたのであって,南京国民政府は非北洋系軍閥の寄合所帯となったのである。西北の馮玉祥,山西の閻錫山(えんしやくざん),広西の李宗仁,広東の李済深がそれで,彼らは1929‐31年にかけて反蔣戦争を発動し,広東独立をおこなった。…

【紅軍】より

…中国工農紅軍(中国労農赤軍)の通称。1927年蔣介石,汪兆銘の国民政府と決裂した中国共産党は8月1日の南昌蜂起(周恩来,朱徳,賀竜,葉挺らが指導),9月の湖南,湖北の秋収蜂起(毛沢東らが指導)など各地で暴動を起こし,中国工農紅軍をつくった。湖南秋収蜂起に失敗した毛沢東は湖南・江西省境の井岡山を根拠に,28年5月には朱徳がひきいる南昌蜂起の残兵が合流して紅第四軍(司令朱徳,政治委員毛沢東)を結成,紅軍の主力となった。…

【国民革命】より

…一方,中共は孫文の威望を重視し,ソ連ないしコミンテルンは東アジアにおける反帝闘争の高揚をねらったのである。大会後,革命の軍隊をつくるべく黄埔軍官学校(校長蔣介石,政治部主任周恩来)が創立され,指導者養成のために農民運動講習所なども設立された。 孫文逝世後,広東政府は汪兆銘を中心とする国民政府に改組され,26年7月,蔣介石を国民革命軍総司令として北伐を開始した。…

【国共合作】より

…1924年1月,国民党第1回全国大会は〈連ソ・容共・労農援助〉の新政策を決定し合作は正式に発足した。孫文の死後もソ連軍政顧問団の支援と労農の組織化にあたった中国共産党の努力で広東国民政府の基盤は急速に強化されたが,国民党内には左翼勢力の伸張を恐れ,蔣介石を中心とする反共・限共の動きが公然化した。北伐戦争が開始され国民政府が武漢に進出した27年4月,蔣介石らは上海,広東で反共クーデタを起こして国民政府を分裂させ,武漢国民政府によった国民党左派も7月,反共に転じて国共合作は崩壊した。…

【CC団】より

…陳果夫・陳立夫兄弟を頭とし,CC団の名称も陳兄弟の頭文字(陳Chén)からきたとも,また彼らが上海に作ったCentral Clubの頭文字からきたともいわれる。兄弟は陳其美の甥で,その関係から蔣介石に近づき,国民党の組織部長などの地位を利用して,1927年蔣介石を首領とし,それに反対する党派の排撃と蔣の独裁を目的とするCC団を組織した。CC団は国民党内における蔣介石の支配権確立の一支柱となり,逆に蔣介石と陳兄弟の勢力拡大に応じて発展し,そのもとに多くの人物を含むにいたった。…

【新生活運動】より

…1930年代に中国で蔣介石が開始した生活様式と社会倫理の改進運動。1934年2月の江西省南昌における蔣介石の〈新生活運動之要義〉という演説に始まり,江西省から急速に全国に拡大した。…

【西安事件】より

…中国で1936年12月12日,西安において発生した張学良による蔣介石監禁事件。日本の華北方面への侵略が激化していたにもかかわらず,蔣介石の国民党政権は,民族的な抗日の声に耳をとざして,共産党の掃討を優先し,そのうえで外敵と戦うという政策に固執していた。…

【全国経済委員会】より

…1931年6月,組織条例が公布され,10月に成立した。委員には蔣介石,宋子文ほか,政府の建設各部局の長官,国民党の元老,上海の銀行家・実業家を含み,国際連盟からの技術援助を受けつつ,政府の建設計画を審議する諮問機関であった。33年9月,財源としてアメリカからの綿麦借款を得て,公路(自動車道路)建設,水利建設,綿業統制,蚕糸改良などの具体的な建設活動を担当する建設実施機関に改組された。…

【中華民国】より

…もちろん政府の方も人民大衆に依拠することによって強化されたのであって,広東政府は陳炯明(ちんけいめい)に代表される広東省内の反対勢力を討伐するとともに,西南とくに李宗仁の新広西軍閥を味方につけ,いよいよ北伐に乗り出すことになる。26年7月,国民党中央執行委員会常務委員会主席,黄埔軍官学校校長の蔣介石が国民革命軍総司令となって北伐は開始された(党主席は北伐期間中は張人傑が代理を務めた)。単純に軍事力を比較すれば,兵力,武器ともに北伐軍の劣勢は明らかだったが,この軍隊には規律と革命精神があり,さらに呼応して起つ労農大衆という味方があった。…

【中国国民党】より

…その前身は19世紀末にさかのぼるが,1919年10月,孫文を指導者として成立した。孫文の死後,蔣介石が党内反共右派に支持されてしだいに党の実権を握り,以後国民党は,75年台湾で蔣介石が死去するまで,その指導下にあった。この間,49年の中華人民共和国成立にいたる人民解放戦争によって国民党は大陸における存立基盤を失うが,党内の反蔣左派によって創立された中国国民党革命委員会(民革と略称)は,中華人民共和国の民主諸党派の一つとして今日も活動している。…

【中山艦事件】より

国民革命の過程で中国国民党右派台頭の契機となった事件。1926年3月20日に国民革命軍軍艦中山号が命令外の行動をとったとして,軍総司令官蔣介石は共産党員でもあった同号艦長李之竜以下を逮捕・尋問した。事件自体の真相は謎が多いが,これを機に共産党系党員への圧迫が始まり,また蔣介石が革命政府の軍・政の実権を掌握するなど,それまでの左派優位の党内で右派の力が強くなっていった。…

【南京事件】より

…4月11日,日本,イギリス,アメリカ,フランス,イタリアの5ヵ国外交団は責任者の処罰,将来の保障,被害の賠償などを要求する同文通牒を提出した。蔣介石は,事件は共産分子により引きおこされたとして,翌12日,反共クーデタを行い(四・一二クーデタ),列強とは対外協調方針によって解決につとめた。翌年3月,アメリカとの妥結についで,イギリス,イタリア,フランスも解決したが,日本との間で解決に関する文書が交わされたのは29年5月のことである。…

【北伐】より

…孫文はこの局面を〈国民革命の新時代〉ととらえ,北方に対して国民会議による統一をよびかけるにいたる。第3回(1926年7月~28年12月)は蔣介石を総司令とする国民革命軍10万が湖南・江西に打って出た。北方でも馮玉祥の国民軍等が呼応した。…

【約法】より

…袁世凱の独裁体制の樹立に役立ったが,15年12月12日袁世凱が帝位を称するまで効力を保ったのち,消滅した。〈中華民国訓政時期約法〉は31年5月国民政府主席蔣介石が立法院院長胡漢民の反対を押し切って召集した国民会議で制定され,6月1日公布。8章89条から成り,訓政時期における〈以党治国〉の原則を明示し,立法・行政・司法・考試・監察の5院を設け,三民主義を教育の根本原則とし,国民政府主席の権限を拡大するなど,党中央の指導権を強め中央集権化傾向を増大させた。…

【四・一二クーデタ】より

…1927年4月12日,蔣介石が上海で発動したクーデタ。上海クーデタとも呼ぶ。…

【四大家族】より

…中国,民国時代の四大家族財閥。蔣介石,宋子文,孔祥熙,陳果夫と陳立夫の各家族を指す。いずれも南京国民政府時代に,国民党および国民政府の要職につくことによって財産蓄積の基礎をつくり,日中戦争時期の統制経済の中で大財閥に発展した。…

【藍衣社】より

…中国,民国時代の政治秘密結社。蔣介石の独裁政治の確立をめざし,彼を永久最高の指導者として,黄埔軍官学校出身者を中心に,力社―青会―復興社といった機構から成る,ファッショ団体を総称していう。1931年末に成立。…

※「蔣介石」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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