中ノ村(読み)なかのむら

日本歴史地名大系 「中ノ村」の解説

中ノ村
なかのむら

[現在地名]高松市中野町なかのちよう栗林町りつりんちよう一―三丁目・宮脇町みやわきちよう二丁目・中央町ちゆうおうちようなど

城下の南に隣接し、西は宮脇村。寛永国絵図に中村とあり、野原のはら庄に属する。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では中ノ村とみえ高六二六石余。公称石高は三〇一石余であったが(貞享高辻帳)、弘化(一八四四―四八)頃の実高は三二〇石余(村高大小庄屋姓名覚帳)。天保元年(一八三〇)には藤塚ふじづかが城下の町となり藤塚町と称している(政要録)。生駒氏時代、西島八兵衛は香東こうとう川の二流のうち東流して城下へ入っていた流れを堰止めたというが、当村は「大川筋」であり、渋柿しぶがき地蔵(柿ノ木地蔵ともある)は同川の堤の地で渡場があったという(讃岐国名勝図会)

中ノ村
なかのむら

[現在地名]野市町中ノ村

土居どい村の北にあり、香宗こうそう川に合流する山北やまぎた川が村の中央を南流する。「土佐州郡志」に「東西南北八町余、戸凡百余、其土黒、村前有韮生槙山通路」とみえ、野市のいち村から槙山まきやま(現物部村)に至る大忍おおさと道が通る。地勢は平坦で、北東部に宗我そが(曾我)、南西部に下地しもじ集落があり、中央部は大忍道に沿った街村集落となっている。山北川の流れは緩やかで用水の便は良いが、香宗川との合流地付近にある下地では永年水害に悩まされた。

土居村とともに「和名抄」所載の古代香美郡宗我そがべ郷の中心地で、村内に「三代実録」貞観一〇年(八六八)閏一二月二一日条にみえる宗我そが神社が鎮座

中ノ村
なかのむら

[現在地名]白山町中ノ村

佐田さだ村の南、初瀬はせ表街道に沿う村。東は大村おおむら川を隔てておか村、南は南出みなみで村、西は街道沿いにかみノ村に接する。中世小倭おやまと郷の中心地であろうか。明応三年(一四九四)の小倭百姓衆起請文(成願寺文書)には村名はない。天保(一八三〇―四四)頃の南出井面家の記録「秘用古実記」(井面勝氏蔵)に「小倭中ノ村城主森岡助之進」とあり、北畠家臣森岡氏の居城があったと記される。森岡(守岡)氏は伊勢国司諸侍役付(神宮文庫蔵)にみえる山田野やまだの村居住の地侍である。小倭党に属したかは不明。

慶長一七年(一六一二)の大山法度(成願寺文書)に「なか郷」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報