与那国村(読み)どうなんむら

日本歴史地名大系 「与那国村」の解説

与那国村
どうなんむら

[現在地名]与那国町与那国よなぐに

与那国島全島を村域とする行政村。ドゥナン村とよぶ。近世初頭与那国島には祖納すない島仲んまなが長嶺なあんに鬚川ひないの四村があり、村高の合計は三二二石余で、入表いりむてい間切に属した(両島絵図帳)。崇禎元年(一六二八)の三間切制までにこれらの村は統合され、与那国島は行政的に与那国村として把握され、大浜ほーま間切に属した(八重山島年来記)。乾隆二年(一七三七)の調査報告(参遣状)によると人口四七七人、祖納・島仲・鬚川の三小村があり、人口の八割余は村番所のある祖納に集中、風気は悪いが田畑は広く、山がちなため材木の入手も容易で住みやすい。しかし年に一度は年貢上納のため石垣島に往還するので不自由とされている。石垣島への上納船水夫や火番・浦留など、三月から六月までは現夫一人につき一ヵ月に一四、五回も夫役があった(同書)。上納穀の運搬船は一艘では支障があったため、同一二年から馬艦船を雇入れている(八重山島年来記)。村役人は康熙四一年(一七〇二)に目差一人を増員して与人一人・目差二人の三人体制となり、勤務期間は四年とされた(参遣状)。「琉球国由来記」によると与那国与人・与那国目差・祖納目差が担当役人として蔵元から派遣されていた。遠海の地であるため、派遣役人に対しては農林業の指導監督、飢饉・漂着船に備えた貯穀の奨励、年貢上納を厳正にすることなどが繰返し指示された(与世山親方八重山島規模帳など)。乾隆三三年の間切改正の際、遠隔地のため間切から除外され、特別行政区として三間切の頭の合議による所管となり(同帳)、以後間切に属せずに近代に至った。近世後期の派遣役人は高齢者が多く(御手形写抜書)、王府の目が届きにくいため綱紀は緩みがちだったようで、貢租帳簿は杜撰で、しかも百姓への穀物・物品の無心や私的使役、上納米・御用物の着服、不正課米などが横行していると報告されている(翁長親方八重山島規模帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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