不入斗村(読み)いりやまずむら

日本歴史地名大系 「不入斗村」の解説

不入斗村
いりやまずむら

[現在地名]富山町高崎たかさき

久枝くし村・市部いちぶ村・竹内たけのうち村の南に位置し、房総往還が通り、南方に峠がある。西は海に臨み、浜方の一帯は高崎(浦)と称された。東は当村から分離した宮野谷みやのやつ村、南は小浦こうら村。

〔中世〕

中世には不入計と書かれた。文永九年(一二七二)五月二六日の将軍家政所下文案(二階堂文書)に「北郡内不入計」とみえ、二階堂行氏は前年四月一六日付の譲状で当地の地頭職を子息行景に譲与、このとき幕府の承認を得ている。暦応四年(一三四一)四月一〇日には沙弥道大(太田時連か)が孫七郎時直に「安房国不入計内藤生村」などを譲り、足利直義の証判を得ている(「沙弥道大譲状写」萩藩譜録)。永和五年(一三七九)閏四月「岩井不入計半分」(号大方分)鶴岡八幡宮に本地供供料として寄進され(同月一三日「鎌倉府政所執事奉書」鶴岡八幡宮文書)、同年(康暦元年)一二月には岩井不入計村全体が供料所とされた(同月二三日「鎌倉公方御教書写」相州文書)。康暦二年(一三八〇)には、「八幡本地供料所安房国岩井不入計」に対する安房守護結城直光の禁制(鶴岡八幡宮文書)が出された。なお「頼印大僧正行状絵詞」にも鶴岡八幡の本地道場に寄付されたことが記されている。杉浦丘園氏蔵鰐口の明応三年(一四九四)一二月三日銘には「北郡岩井不入ママ百姓中」とみえる。

〔近世〕

慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高九二一石余、うち田方五三九石余。里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では里見氏家臣正木淡路領七〇〇石・直轄領二一五石余・寿薬じゆやく寺領二石・天王免四石。

不入斗村
いりやまずむら

[現在地名]市原市不入斗・桜台さくらだい有秋台東ゆうしゆうだいひがし有秋台西ゆうしゆうだいにし青葉台あおばだい泉台いずみだい

片又木かたまたぎ村の南にある。枝郷の深城ふかしろ村・迎田むかえだ村・永藤ながふじ村は元禄郷帳などに記されないが、独立した村として扱われる場合が多い。応永期(一三九四―一四二八)と推定される馬野郡惣勘文(覚園寺文書)富益とみます郷など馬野まの郡内九郷を書上げたあとに不入続郷とみえ、椎津氏の知行で、判読しがたいが、富益・不入続両郷を文永一二年(一二七五)に下知したとする文書があったと記している。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六七五石。慶長一四年(一六〇九)九月二八日の椎津領不入斗之郷検地帳(慶応大学蔵)では田一〇町余・畠二町二反余とあり、一部と考えられる。寛文四年(一六六四)当時は久世広之領(「領知目録」寛文朱印留)

不入斗村
いりやまずむら

[現在地名]大田区大森北おおもりきた一―六丁目・大森本町おおもりほんちよう一丁目など

馬込まごめ村の東、海沿いの低地に立地。北は大井おおい(現品川区)、南は大森村海辺を近世の東海道が縦貫する。当地鎮座の磐井いわい神社(旧称鈴森八幡社)は、「延喜式」神名帳に載る荏原えばら郡の同名社とされる。村は鎌倉・室町時代には大井郷を構成する一村、戦国時代には六郷ろくごうと称される地域に含まれた。なお地名は中世「不入読」とも記された。大井郷は大井氏領であったが(品川区の→大井郷、南北朝期に足利尊氏・義詮から恩賞として土岐氏に与えられていたようで、貞治五年(一三六六)八月三日の足利義詮御判御教書(土岐文書)によると、将軍義詮は文和四年(一三五五)一一月六日の土岐頼重から息子頼高への譲状を認め、頼高に「武蔵国大井郷内不入読村地頭職」ほかの領有を追認している。

不入斗村
いりやまぜむら

[現在地名]袋井市国本くにもと

山名やまな郡に所属。久津部くつべ村の北東、原野谷はらのや川の中流右岸に位置する。「掛川誌稿」では富士浅間の神領の税は公私領の府に入れなかったので、不入斗と記し「イリヤマセ」と訓じたとする。大正頃まで「いりやまぜ」と称していたが、現在、地内の通称地名「不入斗」は「ふにゅうと」とよむ。建武二年(一三三五)一一月一〇日の足利直義寄進状(大宮司富士家文書)に「遠江国富士不入斗」とみえ、足利直義は安間弥六・同弥七、吉良右衛門二郎入道らの跡地の不入斗の地を富士浅間社(富士山本宮浅間大社)に寄進している。

不入斗村
いりやまずむら

[現在地名]横須賀市不入斗町一―四丁目・平和台へいわだい鶴が丘つるがおか一―二丁目・汐見台しおみだい一―三丁目

横須賀村の南にあり、東は公郷くごう村に接した谷奥の小村。応安三年(一三七〇)二月二七日付の円覚寺文書目録(県史三)のうち仏日庵領文書中に「一通 相模国不読入村御寄進状」とあるのが当村のことであろう。小田原衆所領役帳には「三拾貫文 不入斗 元文珠坊知行」、幸田源左衛門「三拾貫百六十三文 入不斗」とある。

不入斗村
いりやまずむら

[現在地名]富津市不入斗

花輪はなわ村の東に位置し、みなと川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に入不斗村とみえ、高四四八石で、幕末まで変わらない。正保国絵図・元禄郷帳でも入不斗とするが、天保郷帳では古くは入不斗と注記し、不入斗村の表記をとる。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数八九で、旗本山下領。天保一三年(一八四二)から武蔵忍藩領。旧高旧領取調帳では上野前橋藩領。寛政五年の人数四五四(椙山家文書)。安政五年(一八五八)より陸奥二本松藩預地で、慶応元年(一八六五)の様子大概並取箇帳によれば田一四町四反余・畑二〇町三反余で、年貢米売津うるづ浦から海路一八里の江戸まで積送り、御林七ヵ所八町歩、家数七五・人数三六六、馬二一・牛五四で、農間に男は薪取、女は木綿織を行った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報