下泉村(読み)しもいずみむら

日本歴史地名大系 「下泉村」の解説

下泉村
しもいずみむら

[現在地名]中川根町下泉

大井川中流左岸、下長尾しもながお村の対岸に位置し、下泉河内しもいずみこうち川が大井川に注ぐ段丘上にある。駿河国志太しだ郡のうち。康永三年(一三四四)四月一五日の智者山ちしややま神社(現本川根町)棟札銘(同社蔵)に「泉」とあり、字那じな(地名)政所とともに馬一疋を寄進しているが、泉は当地を含む地域とみられる。慶安二年(一六四九)の駿河国高付(志太郡誌)に村名がみえ、田方永九八一文・畑方永三五貫九九八文。明暦三年(一六五七)の年貢割付状(勝山家文書)によれば、永高三六貫九七九文、うち川成・山崩れ・日損等を差引き残り三〇貫七〇五文・取鐚九二貫一一五文、ほかに綿三〇〇貫。元禄郷帳によると高二二三石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。旧高旧領取調帳でも同高、幕府領、ほかに八幡社領一石余、東泉とうせん寺領(現廃寺)一石余。

下泉村
しもいずみむら

[現在地名]若葉区下泉町・小間子町おまごちよう

上泉村の西方に位置し、西は鹿島かしま川を挟んで大井戸おおいど村。小間子牧付村。支配領主の変遷は上泉村と同様で、寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)では印旛いんば郡内に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三四六石余。寛政一〇年(一七九八)の田二一町七反余・畑屋敷一〇町四反余(「名寄帳」橋本家文書)。天保四年(一八三三)の年貢米四八六俵余のうち三一五俵余を寒川さんが(現中央区)に納め、五〇俵は仲田久右衛門扱い、七二俵余は用捨(仲田家文書)

下泉村
しもいずみむら

[現在地名]小山市下泉

巴波うすま川流域にあり、北は上泉村。文禄四年(一五九五)の榎本領二十四村惣高覚(大出善作文書)に高二九石余とあるが、元和―寛永期(一六一五―四四)の榎本領有高之覚写(田波忠昭文書)によれば二九四石余。慶安郷帳では田方二〇九石余・畑方二五石余とある。慶長一〇年(一六〇五)榎本藩領、寛永一七年(一六四〇)幕府領、正保元年(一六四四)旗本窪寺・落合の二給、元禄一一年(一六九八)下総古河藩領。

下泉村
しもいずみむら

[現在地名]岩瀬町下泉

岩瀬盆地の西にあり、東は飯岡いいおか村、西は本郷ほんごう村。江戸時代は笠間藩領と天領で、「寛文朱印留」には笠間藩井上氏領として村名が載る。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には溜池二、橋一九があり、芝・薪は飯岡・本郷など七ヵ村の入会で、野銭は飯岡村に納めた。野山は本郷村・堤上つつみのうえ村・飯岡村との入会で、売物は小麦・大豆・茶。文化期(一八〇四―一八)の戸数三五・人数一三八。弘化三年(一八四六)の笠間領内人別調(来栖家文書)によれば戸数二七・人数一五五、馬一三。生活状況は中三、下ノ上四、下三、下ノ下一、極窮一六であった。

下泉村
しもいずみむら

[現在地名]袖ケ浦市下泉

永地えいち村の北東に位置する。古くは上泉村とともに泉とよばれたと考えられ、千葉胤房発給とみられる建武四年(一三三七)六月一〇日の打渡状(佐藤行信氏所蔵文書)に「畔蒜庄泉郷」とみえ、角田三郎跡の泉郷が別符幸時の代官成田幸重に与えられている。寛永二年(一六二五)知行宛行状に下和泉村とみえ、当村の二五九石余と下泉開発地一〇五石余が旗本中川領となった。幕末まで同家領(天保一一年望陀郡戸口録など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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