下平塚村(読み)しもひらつかむら

日本歴史地名大系 「下平塚村」の解説

下平塚村
しもひらつかむら

[現在地名]上尾市平塚一―二丁目・平塚

中平塚村の南、大宮台地原市はらいち支台上にある。西寄りを菖蒲しようぶ(現菖蒲町)方面へ向かう道、南の原市村境を幸手さつて方面へ向かう道が東西に通る。東側は原市沼から北へ延びる低地。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。江戸初期にはのちの上平塚村・中平塚村とともに平塚村一村で、岩槻藩領時の寛永四年(一六二七)年貢割付状(神田家文書)に下平塚村の名がみえる。田七町五反余(分米三三石余)、畑屋敷九町八反余(六貫文余)。しかし慶安期(一六四八―五二)の割付状(同文書)ではいずれも平塚三ヵ村を合せた記載となっており、田園簿でも平塚村として記される。

下平塚村
しもひらつかむら

[現在地名]下館市下平塚

東は石原田いしはらだ村、南は笹塚ささづか村。平塚の名は応安元年(一三六八)閏六月一二日の室町将軍家寄進状案(賜蘆文庫文書所収の鹿島文書)に「常陸国伊佐郡内平塚郷越前々司時綱跡事」とあり、室町将軍家によって鹿島神宮に寄進されている。戦国期に水谷氏の支配下に入り、時期は不明であるが上下に分村する。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高三二九・二〇三石とあり、寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)にも村名がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android