上平塚村(読み)かみひらつかむら

日本歴史地名大系 「上平塚村」の解説

上平塚村
かみひらつかむら

[現在地名]下館市上平塚

下館城下岡芹おかぜり口から五所宮ごしよみや村に通じる道筋に位置し、東は山崎やまざき村。平塚の名は応安元年(一三六八)の室町将軍家寄進状案(賜蘆文庫文書所収の鹿島文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、室町将軍家によって鹿島神宮に寄進されている。

文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となり、江戸初期に下館藩領となる。元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)と寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に村高一六六・八三七石とある。その後天領旗本領となり、元禄郷帳では村高四〇八石余とあるが、天保郷帳では二八七石余と急減し、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)では、名主吉兵衛が、元和九年の検地帳、元禄一三年(一七〇〇)村差出帳、延享三年(一七四六)新田検地などを調査中村高に狂いを生じ、正確な村高を報告できない旨記載している。

上平塚村
かみひらつかむら

[現在地名]上尾市平塚一―二丁目・平塚・菅谷すがや一―二丁目・一丁目

須ヶ谷村の南西、大宮台地原市はらいち支台の北部にある。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。田園簿では平塚村とあり、田八五石余・畑一七九石余、岩槻藩領。弘化二年(一八四五)書写の下平塚村記録之書出し覚(神田家文書)に承応三年(一六五四)「壱村限リ相別ク」とあることから、この年に上平塚・中平塚・下平塚の三村に分れたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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