宗像郡(読み)むなかたぐん

日本歴史地名大系 「宗像郡」の解説

宗像郡
むなかたぐん

面積:六〇・八五平方キロ
津屋崎つやざき町・福間ふくま町・大島おおしま

玄界灘に臨む二町と二つの島からなる一村で形成される。二町の東は宗像市、南は古賀市、北西は玄界灘を間に大島村。

〔原始・古代〕

当郡を含む旧宗像郡の考古遺跡については宗像市を参照。「延喜式」民部上、「和名抄」諸本にみえ、文字の異同はなく、東急本・元和古活字本の訓「牟奈加多」から「むなかた」と読む。ただし「続日本紀」は「宗形」で統一されていることなどからすれば、平安時代に入り郡名表記が「宗形」から「宗像」へ変化したと考えられる。玄界灘に浮ぶおきノ島を含めれば筑前国最北端の郡。東は遠賀おか郡・鞍手くらて郡、南は同郡と糟屋かすや郡に接し、西・北は玄界灘・響灘に臨み、郡の中央付近をつり川が北西に流れる。現在の行政区域ではほぼ宗像市・宗像郡、古賀市の一部に相当すると考えられる。「延喜式」神名帳には名神大社として宗像神社三座、織幡おりはた神社とある。このうち宗像三女神は「日本書紀」神代上第六段によると、天照大神と素戔嗚尊が誓約を行った際に出現した神とされるが、辺津へつ(現宗像市)中津なかつ宮・沖津おきつ(現大島村)の祭神については「古事記」神代巻との間でも異同があり、祀る主体も「筑紫胸肩君」(書紀本文)あるいは「筑紫水沼君」(書紀第三の一書)とされる。現在は宗像市田島たしまの辺津宮に市杵島姫神、大島村大岸おおぎしの中津宮に湍津姫神、同村沖ノ島の沖津宮に田心姫神をそれぞれ祀る。「海の北の道の中に在す」(書紀第三の一書)とされるように、地理的に対馬を経て朝鮮半島へ至る交通上の要衝であることから、元来は宗形君が奉斎する神であったものが、やがて大和政権による祭祀が行われるようになったと考えられており、第二次世界大戦後に行われた沖ノ島の発掘調査により、古墳時代から平安時代に至る祭祀の状況が判明した。

宗形氏は当地の有力豪族で、「日本書紀」天武天皇二年(六七三)二月二七日条によれば、天武天皇の皇子である高市皇子の生母は「胸形君徳善が女尼子娘」であった。現津屋崎町宮地嶽みやじだけ神社奥院の宮地嶽古墳は巨大な横穴式石室を有しており、徳善の墓とみる説がある。「胸方君」が朝臣と賜姓されたことも(同書同一三年一一月一日条)、そうした婚姻関係によると考えられるが、高市皇子の子である長屋王の時代にも当郡との関係が続いていたことは、長屋王家木簡(平城宮概報二三・二五・二七)に「宗形郡大領鯛醤」「宗形郡大領鮒鮨」「宗形郡大領」の付札木簡が存在することからも知られ、「続日本紀」神護景雲元年(七六七)八月四日条によれば、宗形郡大領の外従六位下宗形朝臣深津が竹生王を妻として迎えており、長屋王の変後も王権との関係が存続していたことを示す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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