一山一寧(読み)イッサンイチネイ

デジタル大辞泉 「一山一寧」の意味・読み・例文・類語

いっさん‐いちねい【一山一寧】

[1247~1317]中国台州(浙江省出身臨済宗の僧。げんの使者として来日し、鎌倉幕府に疑われて幽閉されたこともあったが、のち、建長寺・円覚寺・南禅寺に歴住。五山文学隆盛の糸口を作った。一山国師。一寧

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精選版 日本国語大辞典 「一山一寧」の意味・読み・例文・類語

いっさん‐いちねい【一山一寧】

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一山一寧」の意味・わかりやすい解説

一山一寧
いっさんいちねい
(1247―1317)

鎌倉末期、中国から渡来した臨済(りんざい)宗の僧。姓は胡(こ)氏。台州(浙江(せっこう)省)の人。頑極行弥(がんごくぎょうみ)の法を嗣(つ)ぎ、1299年(正安1)西礀子曇(せいけんしどん)らとともに来朝。執権北条貞時は元(げん)の游偵(ゆうてい)(回し者)と疑い、伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に捕らえた。のち許されて建長寺、円覚寺(えんがくじ)、浄智寺(じょうちじ)を歴住し、1313年(正和2)に後宇多(ごうだ)上皇の勅によって南禅寺3世となった。朱子(しゅし)(朱熹(しゅき))の新注を伝え、弟子の接化(せっけ)に偈頌(げじゅ)を用いて、門下に五山文学者を輩出し、禅林文学に大きな影響を与えた。文保(ぶんぽう)元年9月24日示寂。元の成宗(せいそう)(在位1294~1307)より妙慈広済(みょうじこうさい)大師後宇多上皇より一山国師の号を賜う。『一山国師語録』2巻などがあり、弟子に石梁仁恭(せきりょうにんきょう)(1266―1335)、聞渓良聡(もんけいりょうそう)(?―1372)、雪村友梅(せっそんゆうばい)、東林友丘(とうりんゆうきゅう)(?―1369)などがいる。

[中尾良信 2017年1月19日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一山一寧」の意味・わかりやすい解説

一山一寧
いっさんいちねい
Yi-shan Yi-ning

[生]淳祐7(1247)
[没]文保1(1317).10.25. 京都
中国,宋の臨済宗の僧。台州臨海県の人。鴻福寺に入り,無等慧融に2年侍し,次いで普光寺処謙につき『法華経』を,応真寺で律を,延慶寺で天台を学んだ。義解の学を嫌い,天童山筒翁敬禅師に参禅を許され,育王山に登って蔵叟善珍,寂窓有照,頑極行弥 (がんぎょくぎょうみ) らに禅を学び,頑極の法を継いだ。至元 21 (1284) 年,四明祖印寺に住んでいたが,10年後,補陀山観音寺に移り,住持となる。元は文永弘安の役の失敗にかんがみ,平和交渉で日本に服属を促すため,一山を江浙釈教総統に任じ,妙慈弘済大師の号を与え,石梁,仁恭,西かん子曇らとともに,正安1 (99) 年日本に送った。執権北条貞時は,彼を間諜の疑いで捕えて伊豆の修禅寺に禁錮したが,彼の有徳なひととなりがわかると彼を許し,建長寺 10世とした。乾元1 (1302) 年円覚寺7世となる。そののち再び建長寺に帰り,玉雲庵を構えて退居,浄智寺に移る。正和2 (13) 年後宇多法皇の命により,京都南禅寺3世となった。法皇の崇敬は厚く,一山について参禅工夫を重ねられた。一時病気を理由に隠退を願って許されなかった一山が,越州に逃れたときには,宸書をもって慰撫された。文保1 (17) 年 10月一山は南禅寺で病み,法皇みずからの見舞いを受けたが,まもなく法皇への遺表を奉り,遺偈 (ゆいげ) を書き,没した。法皇は,国師号を贈り,塔を亀山廟のそばに建て,法雨の額を賜わった。一山は書画をよくし,儒学や小説などにも通じ,朱子学の普及に貢献した。著書に『一山国師語録』がある。門弟に雪村友梅,無著良縁がおり,虎関師錬,夢窓疎石も一山の教えを受けている。

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改訂新版 世界大百科事典 「一山一寧」の意味・わかりやすい解説

一山一寧 (いっさんいちねい)
生没年:1247-1317

鎌倉後期の禅僧。宋の台州の人。はじめ律,天台を学んだが,のち禅に帰し,蔵叟善珍,頑極行弥(がんぎよくぎようみ)に参じ,頑極の法をついだ。元の成宗は文永・弘安の日本遠征に失敗すると,仏法をもって平和的に服属させようと企図し,一山を正使として日本に派遣した。一山は1299年(正安1)博多に到着したが,鎌倉幕府はこれを怪しみ,一山ら使節一行を伊豆の修禅寺に幽閉した。しかし,一山の本国における名声を聞くや,彼を許して建長寺に入寺させ,ついで円覚寺に住せしめ,執権北条貞時は深く帰依した。後宇多上皇も一山の名声を知り,強く招請したので,1313年(正和2)南禅寺3世として入寺,上皇のために禅要を説いたが,17年(文保1)南禅寺で寂した。一山は禅学のみならず,儒学,詩文に長じ,豊かな教養の持主であったから,朱子学移入史上に重要な位置を占め,また五山文学の発展に寄与した。一山派からは,雪村友梅,大清宗渭など五山文学者が輩出した。
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朝日日本歴史人物事典 「一山一寧」の解説

一山一寧

没年:文保1.10.24(1317.11.28)
生年:定宗2(1247)
鎌倉時代末,日本に来た元の僧。台州(浙江省)臨海県の胡氏の出身。臨済禅大慧派下の無等慧融のもとで出家し,法明文節に天台を学び,天童山の簡翁居敬,育王山の蔵叟善珍らに参禅し頑極行弥の法を嗣ぐ。当時,元は文永・弘安の役の2度にわたる日本侵攻の失敗ののちも,日本へ使いを出し,入貢を求めようとしており,禅僧,愚渓如智らを派遣するが,暴風雨などにより失敗,その後任として一山が日本へ向かうこととなった。成宗皇帝より妙慈弘済大師の号を与えられ,弟子で甥に当たる石梁仁恭,弟子の西澗子曇を伴い正安1(1299)年太宰府に到着した。鎌倉幕府の執権北条貞時はこれを怒り,一山は一旦,伊豆修禅寺に幽閉されるが,高名な禅僧であることがわかり建長寺住持に迎えられた。同4年には円覚寺の住持となり,一時は両寺に兼住した。その後,眼を病んで建長寺の杉谷に玉雲庵をつくりここに住んだ。正和2(1313)年8月,後宇多法皇の招きによって,規庵祖円没後の南禅寺住持となった。後宇多法皇をはじめとした公家の厚い帰依を受け,病による退院を望むが許されず,南禅寺で没した。同寺内大雲庵,建長寺内玉雲庵を塔所とする。一山は,学芸にすぐれ,能書でも知られ,中国の貴族社会の文化を日本に紹介し,朱子学をはじめ,その影響力は大きかった。<著作>『一山国師語録』

(原田正俊)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一山一寧」の解説

一山一寧 いっさん-いちねい

1247-1317 元(げん)(中国)の僧。
淳祐7年生まれ。臨済(りんざい)宗。頑極行弥(がんごく-ぎょうみ)の法をつぐ。元の成宗の命で,正安(しょうあん)元年(1299)来日。執権北条貞時の帰依(きえ)をうけ,鎌倉の建長寺,円覚寺の住持をつとめる。正和(しょうわ)2年後宇多上皇の招きで京都南禅寺の住持となった。朱子学を日本につたえ,五山文学の祖ともいわれる。書にもすぐれた。文保(ぶんぽ)元年10月24日死去。71歳。台州(浙江省)出身。俗姓は胡。諡号(しごう)は一山国師。著作に「一山国師語録」。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「一山一寧」の解説

一山一寧
いっさんいちねい

1247~1317.10.24

鎌倉後期に中国の元から来朝した臨済宗の僧。法諱は一寧,一山は道号。台州臨海県の人。1299年(正安元)元の成宗の国書をもって来日。一時は伊豆国修禅寺に幽閉されたが,執権北条貞時はその徳識を聞いて建長寺の住持に迎え,のち円覚寺・南禅寺の住持ともなる。晩年は後宇多天皇や六条有房らの帰依をうけた。学識は天台教学をはじめ,朱子学・書道・文学の領域に及び,日本の中世文化史上に大きな足跡を残した。弟子に夢窓疎石(そせき)・虎関師錬(こかんしれん)などがいる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「一山一寧」の解説

一山一寧
いっさんいちねい

1247〜1317
鎌倉後期の禅僧
中国浙江 (せつこう) 省の生まれ。一山は道号。1299年,元の成宗の国書を持って勧降使として来日したが,幕府に疑われ,伊豆に抑留・幽閉された。のち,建長寺・円覚寺・南禅寺の住持となり朱子学や五山文学に深い影響を与えた。

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