上蛭田村(読み)かみひるだむら

日本歴史地名大系 「上蛭田村」の解説

上蛭田村
かみひるだむら

[現在地名]春日部市上蛭田

道順川戸どうじゆんかわど村の南西に位置し、古隅田ふるすみだ川沿いの沖積地に立地する。道口蛭田どうぐちひるだ村に飛地がある。埼玉郡岩槻領に属した(風土記稿)。岩槻へ通ずる道が通る。田園簿には上比留田村とみえ、田一三〇石余・畑九二石余で、岩槻藩領。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数二七(本百姓一五・分ケ地六・水呑六)、人数一六五。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高二九四石余・新田高一二一石余、ほかに野銭永二九八文・見取場四反余。

上蛭田村
かみひるたむら

[現在地名]湯津上村蛭田ひるた 蛭田上ひるたかみ

ほうき川左岸段丘上にあり、北部をまき川が南東流する。東は下蛭田村。下蛭田村とはしばしば蛭田として一括して扱われた。永正一三年(一五一六)八月二日那須資親の養子資永を廃し、実子資久を後継ぎとするようにという遺言に従って兵を挙げた大田原出雲守ら那須氏の家臣たちの軍勢は、「蛭田の原」に陣を取って、福原ふくわら(現大田原市)の那須資永勢と対し、当地で激戦が展開された(那須記)。天正一八年(一五九〇)の那須藤王丸資景知行目録(那須文書)に「上ひるた」とみえ、下蛭田・福原などとともで一千七九五石九斗七升。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android