上番村(読み)かみばんむら

日本歴史地名大系 「上番村」の解説

上番村
かみばんむら

[現在地名]粉河町上鞆淵かみともぶち

真国まくに(鞆淵川)の上流に位置する広域の村で、中央を真国川に沿って高野山への街道が通る。北方からきよ(毛屋川)久保谷くぼたに川とが南流して真国川に合流する。北は那賀郡赤沼田あかんた(現那賀町)伊都いと御所ごせ(現かつらぎ町)、南は那賀郡みや(現海草郡美里町)、西は同中番なかばん村に接する。平安時代中期以降は鞆淵庄に含まれ那賀郡内であったが、近世は伊都郡に属した。江戸時代は高野山領で、天保郷帳は上番村として四一三石余を記すが、「続風土記」ははやし・久保・清川きよかわ日高ひだか鳥淵とりぶち南地みなみじ岩滝いわたきの七ヵ村に分けて石高・戸口を記す。しかし同書高野山部では岩滝を中番村に入れ、また天保郷帳の石高からも岩滝は中番村に入っていると考えられる。

林村は清川下流域にあり、「続風土記」には「此村上番の本郷にして中央にあり、他村は此村より出たりといふ、名義旧松林なとありしを切開きて村落をなしゝより起るなるへし、小名二あり、東にあるを向井といひ乾にあるを奥沢といふ」と記している。高九〇・七二八石、家数二五、人数九三、金毘羅社および小祠五(弁財天社・八幡宮・申神社など)があった。久保村は村域北端、久保谷川の水源一帯に人家が散在する。享徳四年(一四五五)正月八日付の鞆淵庄雑事米帳(鞆淵八幡神社文書)に「くほ」とみえる。

上番村
かんばんむら

[現在地名]芦原町上番

金津かなづ宿(現金津町)の西方にあり、竹田たけだ川南岸の自然堤防上にある。「越前地理指南」は枝村として根上ねあがり・新田しんでん仏得寺ぶつとくじを記す。「大乗院寺社雑事記」文明一六年(一四八四)一一月七日条の、朝倉氏と甲斐氏・一向一揆との抗争記事のなかに「王見郷之東之村ハ悉以苅田、大苗代ハ悉以焼了、(中略)本庄郷ハハツワカノ村ノ東辺マテ悉以払竹木」とあり、文中の「ハツワカノ村」は、当村地籍中に「はっちょか」とよばれた地があり、また当村の阿弥陀あみだ寺の山号が初岡山であることから、当村の前身であったようにも思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android