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上杉定正(読み)ウエスギサダマサ

デジタル大辞泉 「上杉定正」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐さだまさ〔うへすぎ‐〕【上杉定正】

[1443~1494]室町中期の武将扇ヶ谷おうぎがやつ上杉持朝もちともの子。太田道灌おおたどうかん補佐されて兵威を振るったが、上杉顕定あきさだ中傷を信じて道灌暗殺。のち顕定との戦い陣中死亡

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関連語 修理大夫 死去

精選版 日本国語大辞典 「上杉定正」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐さだまさ【上杉定正】

  1. 室町中期の武将。持朝の子。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏太田道灌の補佐で関東勢力を広げたが、山内上杉顕定の中傷で道灌を疑い暗殺。のち、顕定と北条早雲を攻めたが敗れ、戦死嘉吉三~明応三年(一四四三‐九四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉定正」の意味・わかりやすい解説

上杉定正
うえすぎさだまさ
(1443―1494)

室町後期の武将。嘉吉(かきつ)3年扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)の三男として生まれる。1473年(文明5)甥(おい)の政真(まさざね)が武蔵(むさし)の五十子(いかつこ)(埼玉県本庄(ほんじょう)市)で古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)と戦って敗死すると、政真の家臣に迎えられて扇谷上杉家を継ぎ、家宰太田道灌(どうかん)らの力によってその家名を高めた。しかし、のちに道灌を相模糟屋(さがみかすや)の館(やかた)(神奈川県伊勢原(いせはら)市)で謀殺したため多くの家臣を失う。長尾景春(ながおかげはる)の反乱に対しては山内上杉顕定(やまのうちうえすぎあきさだ)を助けて戦ったが、のちに顕定と対立し、かつての敵古河公方や景春と結び、また伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲(そううん))とも組んで顕定と戦う。明応(めいおう)3年武蔵の高見原で顕定と対陣した際、落馬が原因で10月5日に急死した。法名護国院大通範亨。

[佐脇栄智]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉定正」の解説

上杉定正 うえすぎ-さだまさ

1443-1494 室町時代の武将。
嘉吉(かきつ)3年生まれ。上杉持朝の子。甥(おい)の上杉政真の敗死後,扇谷(おうぎがやつ)上杉家をつぐ。家宰の太田道灌の助けをえて同家を隆盛にみちびくが,その力をおそれ道灌を殺害。山内上杉顕定とも対立するようになり,北条早雲とむすび顕定を攻める途中落馬し,明応3年10月5日死亡した。52歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上杉定正」の意味・わかりやすい解説

上杉定正
うえすぎさだまさ

[生]文安1(1444)
[没]明応3(1494).10.5. 武蔵
戦国時代の武将。扇谷上杉持朝の子。修理大夫。山内上杉顕定の臣長尾景春を討つ。その後,顕定の中傷によって功臣太田持資 (道灌) を殺害。やがて顕定と不和になり,明応3 (1494) 年,武蔵高見原の陣で死去。

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