上川郡(読み)かみかわぐん

日本歴史地名大系 「上川郡」の解説

上川郡
かみかわぐん

明治二年(一八六九)八月一五日、石狩国東端部に設置された郡で、「公文録」に「上川かみかは」とある。近世はイシカリ場所のうち。東は十勝国上川郡、南西は空知郡、西は雨竜うりゆう郡、北は天塩国上川郡。現在、上川支庁管轄下の美瑛びえい町・東神楽ひがしかぐら町・東川ひがしかわ町・上川町・当麻とうま町・愛別あいべつ町・比布ぴつぷ町・鷹栖たかす町の八町がある。石狩川上流域を占め、西部は上川盆地、東部は大雪連峰・十勝岳連峰など石狩山地の深い山岳地帯。上川盆地は石狩川を中心に愛別川・牛朱別うしゆべつ川・忠別ちゆうべつ川・美瑛川などが流れ、広大な沖積地原野を構成する。郡名之儀ニ付奉申上候条(松浦家文書)に「本川筋神処より惣て上をさして一郡ニ仕候」とあるように、石狩川沿岸に位置する神居古潭かむいこたん(現旭川市)から上流が郡域とされ、郡名も石狩川の上流に由来する。面積は二二七・五〇〇方里と広大であった(道庁統計書)。明治二年八月、開拓使の直轄となる。「石狩国地誌提要」によると戸数三八・人口一五六(男七六・女八〇)で、すべてアイヌであった。同七年二月の大小区画の設定では石狩国の第五大区、同九年九月の改正では北海道の第二大区三小区となったが、「村落未置」であった(「事業報告」第一編)

上川郡
かみかわぐん

明治二年(一八六九)八月より現在までの十勝国および河西かさい支庁・十勝支庁管内の郡名。明治二年八月一五日設置(「開拓使日誌」同年八月条)。旧トカチ場所の一部を郡域とする。現在は清水しみず町・新得しんとく町の二町。北海道の中央部、十勝国の北西部に位置する。東は河東かとう郡、北は石狩国上川郡、西は石狩国空知郡と日高国沙流さる郡、南は河西郡に接する。北部地域は大雪山系の一部をなす。「上川郡」の名称は、十勝川の上流に位置することにちなむ。ただし太政官の「公文録」では上川郡の名はみえない。松浦武四郎の郡名之儀ニ付奉申上候条(松浦家文書)に当郡の範囲と一致する郡の名が「十勝郡上川郡」と記されていることなどから、「公文録」に記される「十勝とかち」郡が上川郡に相当すると考えられる。

上川郡
かみかわぐん

明治二年(一八六九)八月一五日設置(公文録)。旧テシホ場所のうち天塩川上流部が郡域となる。北海道の北部内陸に位置し、天塩国の東部を占める。現在は和寒わつさむ町・剣淵けんぶち町・朝日あさひ町・風連ふうれん町・下川しもかわ町の五ヵ町。東は北見山地を境に北見国紋別郡と釧路国足寄あしよろ郡、北は中川なかがわ郡、南は十勝国河東かとう郡と石狩国上川郡、西は石狩国雨竜うりゆう郡に接する。名称は松浦武四郎によるもので、石狩国にも同名の郡があるが、川の上流部を上川とする重複をあえて提案している(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)。同月常陸水戸藩の支配地となり、同四年八月開拓使の管轄となる(「事業報告」第一編)。同年一二月から同九年九月まで栖原小右衛門が漁場持を勤める。明治五年九月開拓使宗谷支庁、翌年二月留萌支庁苫前出張所、同八年六月札幌本庁留萌出張所苫前出詰所(同年一一月苫前分署と改称)の管轄を経て、同一三年三月留萌外五郡郡役所、翌年七月増毛外五郡郡役所の所管となり、同二九年五月天塩・中川・上川郡各村戸長役場、同三〇年一一月増毛支庁の管轄に移る(以上、同報告・「法令全書」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報